103.永遠の果てまで君を
馬蹄が乾いた道を打ち、風が頬を刺す。
一本道をひたすら西へ進んでいたその時、マナの視界の端に、森の奥へ続く細い小道がのぞいた。
「……あれ」
思わず手綱を握るセトの腕を掴む。
「今、ここ、横に道が……」
セトがちらりと目を向ける。
「この先は行き止まりのはずです。街の者も滅多に通らない道ですよ」
それでも、マナは首を振った。
「……でも、なんだか……お母さんが、こっちにいる気がする」
セトは短く息を吐き、迷わず手綱を引いた。
馬の向きを変え、落ち葉に覆われた細道へと踏み入れる。
木々が頭上を覆い、空気がひんやりと変わった。
森の奥へ向かう街道を、馬の蹄音が切り裂く。
マナの頬には、風と涙が交互に流れた。
背後ではセトが無言で馬を操り、その横顔は固く引き締まっている。
視界の先、木々の合間から銀光が立ちのぼっていた。
光は天を裂き、大地を覆う紋様が渦を描く。
その中心に――ユナが立っていた。
「お母さん!」
マナは馬から飛び降り、駆け寄ろうとした。
しかし、熱と風が壁のように立ちはだかり、一歩も進めない。
「来てはだめ!」
ユナの声は鋭く、それでいて包み込むように優しい。
「……封印は、完全じゃなかった。まだ……ヴァルザは、私の中にいるの」
低く押し殺した声に、空気が凍りつく。
「私の力は……二度の封印で確実に弱まっている。今を逃せば、あいつはこの身体を奪い……世界を呑み込む」
「でも……!」
マナの喉が震え、声がかすれる。
「わかってる……お母さんが今やろうとしていることが、自分を犠牲にすることだって……そんなの嫌、行かないで!」
ユナはその叫びを正面から受け止め、微笑んだ。
「マナ……いい子だから、言うことを聞いて。お願い。この世界を守るには、もう他に手がないの」
「いや! 絶対に嫌!」
涙で滲む視界の中、マナは必死に首を振る。
ユナは視線をセトへと移した。
「……あなたなら、わかるはず。この判断が正しいって」
セトは一瞬だけ目を閉じた。
再び開いた瞳には、苦悩と覚悟が深く宿っている。
ユナの身体から滲み出す、黒い気配――ヴァルザの核が刻一刻と膨れ上がっているのを感じていた。
今この瞬間も、魂が引き合い、必死に押しとどめている。
その均衡は、もう長くは保たない。
セトはそっとマナの肩に手を置き、静かに告げた。
「……あなたの母の、最期の言葉を……聞きましょう」
その言葉は、刃のようにマナの胸を貫いた。
喉の奥が熱くなり、堪えていた涙が一気にあふれ出す。
こぼれる雫が頬を伝い、足元に落ちても、マナは必死に声を上げることを拒んだ。
ただ、目の前の母から一瞬たりとも視線を逸らさない――
その瞳に刻みつけるために。
ユナはその視線を受け止め、愛おしげに頷く。
「いい子ね、マナ……」
ほんの刹那、静寂が降りる。
ユナはマナ、そしてセトを順に見つめ、その瞳に焼き付けるように視線を重ねた――次の瞬間、封印陣が轟音を上げ、銀光が爆ぜた。
口元がわずかに緩み、声にならない何かが唇から零れた――。
銀白の光柱が天へと伸び、大地が唸りを上げる。
空気は裂け、激しい風が木々をしならせ、枯葉を巻き上げた。
黒い影――ヴァルザの核が、獣のような咆哮とともに暴れ狂う。
だが、ユナは一歩も退かず、胸の前で両の手を強く組み合わせた。
封印陣が眩い閃光とともに脈動し、その中心から放たれた銀白の光が、黒を絡め取るように絡みつく。
「……再び還れ……私の魂へ――」
その低い呟きと同時に、渦巻く光は、ユナ自身の身体へと吸い込まれていった。
ヴァルザの核が抗うように吠え、瘴気が周囲を焦がす。
それでもユナは逃げず、全てを抱きしめるように両腕を広げ、その闇を自らの魂の奥底へ押し込めていく。
凄絶な光と黒のせめぎ合いが、彼女の輪郭を微かに震わせる。
肩先から、指先から、白銀の粒子が零れ始め、それらは逆巻く闇の上を漂いながら空へと散っていった。
封印が進むたびに、その身体は淡く透け、世界から遠ざかっていく。
マナの目が見開かれ、言葉にならない声が喉の奥で途切れる。
セトは拳を握りしめ、視線を逸らせぬまま立ち尽くした。
光は確実に、ユナをこの世界から引き離していく――。
その時、轟く蹄音が封印の咆哮に混ざって迫った。
視界の端から、白い外套が風を裂いて飛び込んでくる。
アルヴァンだった。
彼は迷わず馬を飛び降り、光と瘴気の入り混じる中を駆け抜け、
消えかけるユナを抱きしめた。
「っ……!」
黒い瘴気が肌を焼き、衣を焦がす。それでも離さない。
ユナが薄く目を開き、かすかに笑む。
「……アルヴァン……」
震える腕が彼の背に回り、周囲に淡い光が広がった。
地面から湧き上がった浄化の光が二人を包み込み、空へと昇っていく。
「……ごめんなさい」
ユナの囁きに、アルヴァンは首を振った。
「最後の手紙も……こうして話すことも……全部、あなたの未練になるとわかっている……それでも……」
途切れ途切れの声。
アルヴァンは言葉を探そうとするが、胸が詰まり、ただ強く頷くことしかできなかった。
そして、ようやく絞り出した声は、震えていた。
「ユナ……」
「許されるなら……あなたと、マナと……三人で街を歩いて……笑いながら食卓を囲んで……そんな日々を……平和になったこの国で過ごしたかった……」
アルヴァンの瞳から、抑えていた涙が溢れ落ちる。
「そんな末来、これからいくらだって叶えられる!」
ユナはその必死な声に、静かに微笑んだ。
「……そうなったら、どんなに幸せだろう。あなたとマナと、同じ道を歩いていけたら……」
瞳が揺れる。
「でも……私はもう、その未来を選べない」
ユナの言葉が、胸の奥で鈍く響き、息が詰まった。
「……また、君を……失うなんて……俺は……嫌だ……」
その声は、掠れて震え、胸の奥から零れ落ちるようだった。
ユナはそっと手を伸ばし、アルヴァンの頬をいとおしげに撫でた。
「……ありがとう、アルヴァン。でも……私の代わりに、マナと歩んでいってほしい……」
淡い光が彼女を包み、輪郭が透けていく。
アルヴァンは唇を強く噛み、肩を震わせた。
やがて、その瞳から力が抜け、深く息を吐く。
「愛している……出会った日から、ずっと君だけを想ってきた。……これからも、ずっと、ずっと君を想う」
ユナは優しく微笑み、静かに頷く。
「私もよ、アルヴァン……あなたを、ずっと愛してる」
淡い光が彼女を包み、輪郭が透けていく。
「お母さん――!」
マナの絶叫が響き、涙で視界が滲む。手を伸ばす――けれど、その指先は空を切った。
ユナの声が、春の風のように優しく、しかし遠くに消えていく。
「マナ……愛してる……あなたは、私の――」
光の粒が宙に舞い、ユナは静かに消えた。
「ユナ――っ!」
アルヴァンの叫びが森の奥まで響き渡る。
やがて残ったのは、舞い落ちる光と、静かな風の音だけだった。




