名前
エレノアはアレンに挨拶をして出て行こうとした。けれどリハルに袖を引っぱられる。
「王子にここまでして頂いてそのまま帰られるおつもりですか?」
ええ…?
リハルに凄まれて引き気味で尋ねる。
「他に何かお望みですか?」
「そうですね。王子は貴方の紅茶が気に入ったようですので一杯淹れてもらえますか」
リハルの待ってましたとばかりに返って来た言葉を聞いて、エレノアはちらりとアレンの方を見た。彼は相違ないというようにこちらを見ている。
まあ紅茶くらいなら…
アレンの好きな茶葉を用意していると後ろからまた声をかけられる。
「好みをよく知っているな」
「前回も同じものが用意されていたので王子のお好きな茶葉なのかと。別のものがよければ教えて頂ければそれを淹れます」
じっと見つめてくるアレンに笑顔を返しながら平静を装うと、彼もまた静かに言葉を返してきた。
「王子、か。僕の名前を知っているか?」
それはもちろん知っている。
身分の低い者が貴族の名を呼ぶのは無礼になる事が多いので基本召使は呼ぶことはない。
あったとしても王子殿下程度だろうが、この場合聞かれているのは本当に名前なのだろう。
なぜそんな事聞くのかしら?
確か新人研修で集められた時、王族の紹介はあった気がする。眠たくて半分程度しか覚えていなかったが城の主達の名を仕えている召使が知らないなどと言う事はまずない。
「存じてます」
「ならば、呼んでみてくれないか?」
「でも…」
「不敬にはあたらないと約束しよう。僕の名を呼ぶ人間はもう数えるしかいないんだ」
エレノアは少し考える。そこまで言うなら特に問題はないだろうが何か既視感があった。
昔、似たような話をした…ような?なんだったかしら?
「どうだろうか」
短い思考はアレンの言葉によって遮られた。そしてここで思いとどまっていたらもしかして何か違ったかもしれない。
「あ、ええと…。アレン……ジヘルラート王子殿下?」
口に出した途端、王子がわかりやすく驚いた顔をした。
「本当に…」
え?どう言う事?
ただ許可をされて名前を呼んだだけだ。けれど目の前のアレンの反応は、決してそれだけではないとわかるようなものだった。
何?何が…
直感的に先ほど引っ掛かったものが関係している気がする。
王族、名前……あっ
そこでようやく思い出した。アレンと出会って間もない頃の話だから随分昔の話だ。
王族は過去の偉業を残した王族名を継承する事が多く、アレンは自分の名前が好きではなかった。平和なこの国で珍しく騎士として他国を攻めた勇猛な王族だった。けれど所詮井の中の蛙、大海の猛者に手を出して大敗を喫した。
そして賠償として自分の妻や子供を差し出した
過去の偉人の中では強靭な武人として評価は高いが、アレンはその人物を受け入れる事は出来なかった。だから親しい間柄ではミドルネームであるアレンと呼ばれる事を好んだ。アレンという名は初代王族であり、精霊信仰の第一人者である聖人の名前だ。平穏を好み自身の命をかけて家族を守ったという。
エスティアル・アレン・ジヘルラート
これが彼の本当の名前だ。そして同時に自分の失態に気付いた。
見知らぬ他人ならば、必ずエスティアルの名前を呼ぶ。むしろミドルネームの方があまり周知されていないかもしれない。新人研修でも王子たちの名前はファーストネームの方を呼ばれていたはずだ。眠たくて覚えていないけれど。
つまり、アレンと呼ぶのは彼と親しい人間の象徴でもある。
けれどまた新たな疑問が浮かんでくる。
アレンはどうしてそんな事を聞いたのだろう?
ちらりとアレンを見ると、彼はやはり何も言わない。
「アレン…」
「うん」
「ずっと気付いてたの?」
「うん」
二回目の返事の時、アレンは笑っていた。少し幼く見える笑顔で。
「おかえり、エレノア」
それを聞いてエレノアは脱力した。必死で隠していたと思っていた、けれどいつから?いつから気づいていたのだろうか?
「どうして、黙っていたの?」
「言いたくなさそうだったから」
彼の言葉は短いが的確だ。本当にエレノアの気持ちだけを汲んで黙っていたのだろう。今も惚ければきっと知らない振りをしてくれただろう。知りたい事は沢山あっただろうに、彼はそういう人だ。
「本当の事を言うと確証を得るまでの方が時間がかかった。僕はテオドアのように不可解な事象を全て信じる事は出来なかったから。だから貴方が生きていると言う事の証拠を集めようとした。ディザリアの周辺を調べようとしたがちょっと別の問題が出てきてね。自由に動けるテオドアがとても羨ましかったよ」
アレンも私を探してくれていた?
“いつも淹れてた人がいなくなっていしまったからな”
あの言葉の意味がようやくわかった。
「やっぱり、アレンは今のエレノアが私じゃないって気づいていたのね?」
「当たり前だろう。けれど何か行動を起こすには情報が足りない。逃げられでもしたら困るから」
そこはテオとよく似てる考えなのね
そしてアレンが少し聞きにくそうに言葉を続けた。
「城に来てどうして僕に会いに来なかったの?」
「アレンは…アレンが私を探しているとは思わなかったわ」
理解できないというようにアレンが不思議そうにこちらを見てくる。多分エレノアの言葉を待っているのだろう。
「だって、私を婚約者にしたのも…その、仕方なくしたんでしょう?恩義を感じているだけでアレンの人生を決めるのはよくないと思ってたの」
「…はあ?」
寝台からずり落ちそうなくらい身を乗り出したアレンを押し留める。
「平民の私を婚約者にする事で、王と取引をしなければいけなかったと聞いたわ」
「誰に?」
「テオだけど」
アレンは頭が痛いというような動作をしてしばらく無言で俯いた。何か悪い事言っただろうか?
「テオドアもそこまで言うなら最後まで詳細を述べておいてほしいね。こうやって誤解されてすれ違っていくんだろうな」
「え?」
近くに寄った為か、アレンの手がエレノアの手に触れて優しく握られた。
「僕たちは話し合う必要があると思う」
そう言うとリハルが寝台の近くに椅子を持ってきて奨めてくれた。
エレノアもアレンの真剣な表情に頷くしかなかった。




