第9話 第百七条
翌朝、編纂室の机の上に、典礼院の封書が置かれていた。
申し立ての写しだ。
編纂官には、審議の前に写しが届く決まりになっている。
ギルベルト様は封を切り、拡大鏡をかけかけて、やめた。
「お嬢さん、読め。わしの目では、こういう細い字は一日かかる」
私は写しを受け取った。
見覚えのある、角張った几帳面な字。
ドレクセル公爵閣下ご本人の筆だった。
「『典範第百七条に曰く、典範の条文は、典礼官これを起草し、国王の裁可を経て加う』」
声が、少しだけかすれた。
「『しかるに第百条は、典礼官にあらざる者、それも当時十二歳の少女の手によって起草されたものである。第百七条の定める手続きを欠く以上、第百条ははじめから典範の条文たりえず。典礼院はその無効を確認すべし』」
ギルベルト様は、目を閉じて聞いていた。
「続けい」
「『第百条が無効であれば、先の夜会において第一王子アルベルト殿下が述べられた撤回は、有効な撤回である。殿下の第九十九条による宣言は取り消され、殿下は王都に戻り、王位継承権は回復されるべきである』」
手が冷たくなった。
殿下が戻ってくる。
あの夜のことは、何もなかったことになる。
それが、閣下の狙いなのだ。
亡くなった王妃様の兄君にとって、アルベルト殿下はたった一人の甥だ。
殿下が王になれば、伯父である閣下は王の後ろ盾になる。
殿下の継承権が止まれば、次は第二王子のユリウス殿下。
同じ王妃様の御子だけれど、十三歳のユリウス殿下は、伯父の言うことを黙って聞く方ではないと評判だった。
閣下にとって、第百条は、自分の未来に打ち込まれた杭なのだ。
「……続きがあります」
「読め」
「『なお、第百条の原案を書いた少女は、当時第一王子殿下の婚約者であった。殿下の振る舞いに恨みを抱いた少女が、殿下を縛るために書いた条文であることは明らかである。私怨によって王家の法を書いた者に、典範を預けることの是非についても、あわせて審議を求める』」
最後の一行を読み終えても、しばらく顔を上げられなかった。
私怨。
王家の法を、私怨で書いた者。
条文が消されるだけではない。
あの夜、大広間で私が読み上げたものは、すべて恨みを晴らすための芝居だったことになる。
陛下のご判断も、宰相閣下の言葉も、フローラ様の真っ直ぐな目も。
そして私は、この編纂室の机を失う。
ようやく角度を直したばかりの机を。
◇
「第百八条のほうは、使わんのじゃな」
ギルベルト様が、ぽつりと言った。
「第百八条。条文を改め、削るには、国王の裁可と典礼院の三分の二。削るのなら、陛下が首を縦に振らねばならん。だから閣下は、削るとは言わん。はじめから無かった、と言う」
「無効の確認なら、典礼院だけで決められる」
「そうじゃ。評議員は十二名。三分の二なら八名。閣下の息がかかっとるのが、少なく見て五名」
「残りは、三名」
「どっちに転ぶか分からん連中じゃ。夜会で胸がすいたと言う者もおれば、王子を砦へ送った小娘が気に食わんと言う者もおる」
審議は、告示の日から三十日後。
百日の、ちょうど真ん中あたりだった。
窓の外で、図書館の中庭の木が風に揺れている。
ギルベルト様は黙って目を閉じ、何かを思い出そうとしているようにも、眠っているようにも見えた。
私は申し立ての写しを畳み、もう一度開き、また畳んだ。
指が、紙の角を何度もなぞっていた。
昼過ぎ、王宮から小さな封書が届いた。
陛下の私的な手紙に使われる、飾りのない白い封筒。
中には、一行だけ書いてあった。
『私は口を出さぬ。出せば、第百条は王が私情で守った条文になる』
その下に、少し小さな字で。
『お前の書いたものを、お前の手で守りなさい』
封筒を胸に当てて、私はしばらく動けなかった。
陛下が口を出せば、審議はきっと止まる。
けれどそのとき、第百条は、国王が気に入った娘のために守られた条文になる。
言葉の重さを定めた条文が、王の一言で守られる。
それでは、閣下の言うとおりになってしまうのだ。
陛下は、それを分かっていらっしゃる。
分かったうえで、手を離してくださった。
◇
夕方、閲覧室の三番目の机で、私は第百条の頁を開いていた。
私怨。
その言葉が、頭から離れない。
六年前、私は泣きながらこの条文を書いた。
誕生日に来なかった殿下に、雨の中で三時間待たせた殿下に、腹を立てていた。
悲しくて、悔しくて。
殿下にも、少しは私と同じ思いをしてほしいと、どこかで思っていなかっただろうか。
あの夜会で第百条を読み上げたとき、胸がすっとしなかったと言えば、嘘になる。
「セシリア」
隣の机から、静かな声がした。
レオン様が、私の名前だけを呼ぶのは初めてだった。
顔を上げると、あの人は修繕の手を止め、まっすぐこちらを見ていた。
「今、自分を疑っていますね」
「……閣下のおっしゃることが、全部間違いだとは思えないのです。私は、殿下に腹を立てていました。あの条文を書いたとき、殿下の顔を思い浮かべていました」
「では、条文をもう一度読んでください。声に出して」
私は、頁に目を落とした。
「『一度宣言した言葉を、己の都合で翻した王族は、言葉の重みを知らぬ者とみなす。その者の言は、以後、王命として扱わない』」
「どこかに、殿下の名前がありますか」
「……ありません」
「罰を与える、とは書いてありますか」
「ありません」
「あなたが書いたのは、王族の言葉を軽くさせないための決まりです。殿下のためだけに書いたなら、殿下の名前を書けばよかった。でも十二歳のあなたは、そうしなかった」
レオン様は、眼鏡を押し上げた。
「私はあの夜、あなたの字を直しました。殿下の名前は、一度も出てきませんでしたよ」
胸の奥で、固く結ばれていた何かが、少しだけほどけた。
「……ありがとうございます」
「礼は、審議に勝ってからにしてください。まずは、六年前に何があったのかを、帳面で確かめましょう。裁可録は、図書館の閉架にあります。鍵は、館長と私が持っています」
そのとき、閲覧室の入口で杖の音がした。
ギルベルト様だった。
閉館後の閲覧室に、この方が来るのは珍しい。
拡大鏡を胸のポケットに差したまま、ゆっくりと私たちの机の前まで歩いてくる。
「お嬢さん。第百七条を、もう一度よう読んでみい」
しゃがれた声が、高い天井に響いた。
「あの条文が問うとるのは、起草した者が誰か、じゃ。原案を書いた者が誰か、ではない」




