第8話 好きなもの三つ
安息日の河岸は、人でいっぱいだった。
川沿いの石畳に、布張りの屋台がずらりと並んでいる。
積み上げられた古本、色褪せた地図、ばらばらになった楽譜の束。
焼き栗の匂いと、古い紙の匂いが、川風に混ざって流れてくる。
王都に十八年住んでいて、ここへ来たのは初めてだった。
王子妃教育の休みの日は、たいてい次の講義の予習をしていたから。
今朝は、着ていく服を三回選び直した。
夜会のドレスでも、王宮に上がる服でもない。
ただ川沿いを歩くための服というものを、私はほとんど持っていなかった。
結局、侍女が衣装箱の底から、何年も前の藍色のワンピースを見つけてくれた。
侍女は、なぜか私より嬉しそうだった。
「人が多いので、はぐれないように」
レオン様は、いつもの黒い外套だった。
ただ、今日は眼鏡を少しずらして、屋台の本を一冊ずつ覗き込んでいる。
図書館にいるときより、少しだけ歩くのが速い。
「若旦那! 今週もお早いね」
古書の屋台の主人が、レオン様に手を振った。
ヴァイス家の写本を持ってきてくれた、あの古書商だという。
「若旦那、ですか」
「十二のときから毎週来ているので。いつの間にか、そう呼ばれるように」
「毎週」
「毎週です」
レオン様は少し照れたように言って、屋台の奥の木箱に手を伸ばした。
古書商の主人は、私の顔をじろじろと見て、それからにやりと笑った。
若旦那が連れを連れてくるのは初めてだね、と大きな声で言う。
レオン様は聞こえないふりをして、木箱の本を一冊ずつ取り出し始めた。
その手つきは、図書館で写本を扱うときと同じくらい丁寧だった。
◇
一つ目は、すぐに分かった。
レオン様は、本の中身より先に、余白を見る。
頁の端に残った鉛筆の書き込み、挟まったままの押し花、角を折った跡。
それを見つけるたびに、ほんのわずかに口元がゆるむのだ。
「前の持ち主の跡が、お好きなのですね」
「……分かりますか」
「顔に出ていらっしゃいます」
レオン様は、困ったように眼鏡を押し上げた。
「本は、読んだ人の数だけ跡が残ります。誰がどこで引っかかって、どこで笑ったのか。修繕をしていると、それを消さないように直すのがいちばん難しい。でも、いちばん面白い」
あの人は、手にした古い詩集の余白を指でなぞった。
小さな字で、誰かが一行だけ書き込んでいる。
ここで泣いた、と。
「百年前の誰かが、ここで泣いたんです。いい本でしょう」
その横顔を、私はしばらく見ていた。
十年、隣の机にいて、この顔を一度も見たことがなかった。
◇
二つ目は、意外なものだった。
屋台の並びが途切れたところで、レオン様が急に足を止めた。
視線の先に、小さな焼き菓子の屋台がある。
蜂蜜をたっぷりかけた、丸いパンだ。
「……少し、待っていてください」
戻ってきたあの人の手には、紙に包んだパンが二つあった。
一つを私に渡し、もう一つを、真面目な顔のまま一口かじる。
眼鏡の奥の目が、ほんの少し細くなった。
「甘いものが、お好きなのですか」
「兄には言わないでください。三十年はからかわれます」
思わず、笑ってしまった。
声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
蜂蜜のパンは、温かくて、びっくりするほど甘かった。
王子妃教育では、人前で物を食べ歩いてはいけないと習った。
今、それを破っている。
破っても、何も起きない。
◇
「あなたは、何を見ていましたか」
川沿いの石段に腰を下ろしたところで、レオン様が訊いた。
「え?」
「さっきから三度、同じ屋台の前で足が遅くなっていました。地図の屋台です」
言われて、気づいた。
色褪せた地図の束。
知らない国の海岸線、もう無い町の名前、手描きの山並み。
確かに私は、あの屋台の前を通るたびに、目で追っていた。
「……地理の講義が、好きでした」
口に出してみて、自分で驚いた。
「王子妃は、国境と隣国の地名を知っていなければならない。そう言われて覚えました。でも本当は、ただ、地図を見るのが好きだったのかもしれません。行ったことのない場所の、線を辿るのが」
好きなもの。
十年ぶりに、自分のために見つけた気がした。
「では、あとで一枚選びましょう。編纂室の壁が、少し寂しいので」
「……はい」
地図の屋台で、私は長い時間をかけて一枚を選んだ。
北の国境あたりを描いた、古い街道の地図だった。
細い線の山並みと、点々と続く宿場の名前。
その北の端に、小さな四角い印と、かすれた文字がある。
グレイ砦。
今ごろ殿下は、あそこで薪を割っているのだろうか。
フローラ様は、雪かきの支度をしているのだろうか。
地図の上では、王都から指一本分の距離だった。
川面に、夕日が映り始めていた。
私は指を折って数える。
前の持ち主の跡、蜂蜜のパン。
「あと一つ、教えていただけますか。公爵夫人に、三つと言われましたので」
レオン様は、しばらく川を眺めていた。
「閉館のあとの閲覧室で、ランプを二つ灯しておくことです」
それだけ言って、あの人は立ち上がった。
外套の背中しか見えなかったけれど、耳の先が赤いのは分かった。
六年前も、あのランプは、私が帰るまで消えなかった。
◇
地図を一枚買って、橋のたもとまで戻ってきたときだった。
人だかりができていた。
橋の欄干の脇にある告示板の前で、人々が何かを読み上げ、ささやき合っている。
「典礼院の告示だとさ」
「第百条って、あの夜会の……」
レオン様が、人垣の向こうを見て足を止めた。
その横顔から、さっきまでの柔らかさが消えている。
私は、人々の肩越しに、真新しい羊皮紙を見上げた。
典礼院の朱の印。
その下に、見覚えのある名前の署名。
『典範第百条につき、その効力を審議す。三十日の後、典礼院にて。申し立て人、典礼院筆頭評議員、オスヴァルト・ドレクセル』
↓第1章の番外編「言葉の綾」(アルベルト殿下視点。北の砦への七日と、口癖の始まり)
https://note.com/wise_turtle184/n/nfc14a8da5359




