第7話 公爵家の晩餐
グラーツ公爵家の屋敷は、王都の西の丘の上にあった。
門をくぐると、白い石の館が夕日に染まっている。
玄関の上に、紺の地に交差する二本のペンと一冊の本の紋章。
建国のころ、王家の記録を任された書記の家だったと、王子妃教育で習った。
馬車を降りると、レオン様が待っていた。
いつもの黒い外套ではなく、濃紺の礼服を着ている。
眼鏡だけが、いつもどおりだった。
「ようこそ。……先に謝っておきます」
「何をですか」
「母は、質問でしか話さない人です。それから兄は、質問に答える前に喋る人です」
どういう意味かは、すぐに分かった。
◇
「いやあ、よく来てくれた! レオンが女性を家に連れてくるなんて、生まれて初めてだ。俺はフランツ、こいつの兄。見てのとおり、弟よりずっと愛想がいい」
玄関の広間で、金髪の青年が両腕を広げていた。
レオン様より背が高く、日に焼けていて、よく笑う。
グラーツ公爵家の嫡男、フランツ様だ。
「兄上」
「なんだ、紹介ぐらいさせろ。セシリア嬢、夜会の話は聞いたよ。第九十九条、最高だった。俺もあの場にいたかったなあ」
「兄上」
「分かった分かった。母上がお待ちだ」
食堂は、思っていたよりずっと小さかった。
長い食卓ではなく、六人ほどが座れる丸い卓。
壁の三面が書棚になっていて、ランプの光が背表紙の金文字を照らしている。
その卓の奥に、灰色のドレスの婦人が座っていた。
背筋がまっすぐで、白いものの混じった髪を一筋の乱れもなく結い上げている。
グラーツ公爵夫人、イレーネ様。
二年前まで、王宮の女官長を務めていた方だ。
「セシリアさん。お掛けなさい」
声は、驚くほど静かだった。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます、公爵夫人」
「夫は領地におります。今夜は三人でお相手します。よろしいかしら?」
「はい」
「お嫌いなものは?」
「ございません」
「本当に?」
イレーネ様の灰色の目が、まっすぐ私を見た。
「……ございません」
イレーネ様は何も言わず、給仕に目で合図をした。
◇
食事は、穏やかに進んだ。
フランツ様がひとりで喋り、レオン様がときどき訂正し、イレーネ様が短く問う。
夜会のこと、編纂室のこと、ヴァイス家の件。
どの問いにも、私は王子妃教育で身につけたとおりに答えた。
簡潔に、失礼のないように、相手の知りたいことだけを。
フランツ様は、弟の子どもの頃の話をいくつもしてくれた。
五つのとき、屋敷の書庫に潜り込んだまま出てこなくなり、一晩じゅう家じゅうで探したこと。
見つかったとき、レオン様は棚のいちばん下の段で、背表紙の取れた本を膝に抱えて眠っていたこと。
十二で図書館に通い始めてからは、家にいるより図書館にいるほうが長くなったこと。
「公爵家の次男なんて、継ぐものは何も無いからな。こいつは自分で、継ぐものを見つけに行ったんだ」
フランツ様が笑い、レオン様は黙ってスープを口に運んだ。
否定しないところを見ると、本当なのだろう。
私は相槌を打ちながら、ひとつも口を挟めなかった。
知らない話ばかりだった。
十年、すぐ隣にいた人の、知らない話ばかり。
デザートの皿が下げられたところで、イレーネ様がナプキンを置いた。
「セシリアさん。一つ、伺ってもよろしいかしら」
「はい」
「レオンの好きなものを、三つ言えますか」
食堂が、しんとした。
フランツ様が口笛を吹きかけて、レオン様に睨まれてやめる。
私は、答えようとした。
写本の修繕。
古い紙。
図書館。
どれも、あの人の仕事だ。
あの人が毎日していることで、あの人が好きなものかどうかは、私は知らない。
十年間、閲覧室で隣の机にいた。
けれど私は、ずっと殿下のほうを向いていた。
隣の机の人が何を好きで、何を嫌い、何を食べて何に笑うのか。
一度も、尋ねたことがなかったのだ。
「……申し訳ありません。存じません」
顔が熱くなる。
王子妃教育の笑顔を作ろうとして、うまくいかなかった。
「母上」
レオン様が低い声で言った。
「いいのよ、レオン」
イレーネ様は、少しも表情を変えなかった。
「知らないことを、知らないと言える人でよかったわ。知ったふりをする方なら、今夜のうちにお帰りいただくところでした」
◇
食後、イレーネ様に書斎へ呼ばれた。
壁一面の書棚に、同じ背表紙の革の帳面がずらりと並んでいる。
背に、年号が一つずつ刻まれていた。
「女官長の日誌です。王宮で、誰がいつ、陛下のもとに何を持って来たか。二十年分、すべて書いてあります」
イレーネ様は一冊を撫で、それから私に向き直った。
「八歳のあなたを覚えていますよ。王子妃教育の初日、わたくしが礼法の最初の講義をしました。お辞儀の角度を、三回で覚えた子でした」
「……覚えていらしたのですか」
「覚えるのが仕事でしたから」
イレーネ様は、ほんの少しだけ目を細めた。
「あなたは十年、王子妃に必要なものだけを好きになってきた。お茶の銘柄も、花も、音楽も。違いますか?」
違わなかった。
嫌いなものが無いのは、好き嫌いを持たないように教えられてきたからだ。
「百日あるそうですね」
「はい」
「では、その百日で探しなさい。レオンの好きなものと、あなたの好きなものを。典範に書いていないことを」
イレーネ様は、書斎の扉を開けた。
「三つ言えるようになったら、またいらっしゃい。そのときは、あなたの好きなものを伺います」
◇
帰りの馬車は、レオン様が送ってくれた。
「母が、失礼を」
「いいえ。公爵夫人のおっしゃるとおりでした」
窓の外を、王都の灯りが流れていく。
私は膝の上で手を組み、しばらく黙っていた。
十年、隣の机にいた人のことを、私は何も知らない。
それが、殿下に言葉の綾だと笑われたときより、ずっと悔しかった。
「レオン様」
「はい」
私は、隣に座るあの人のほうを向いた。
真正面から顔を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「あなたの好きなものを、教えてください」
レオン様は、眼鏡の奥で何度か瞬きをした。
それから、困ったように、少しだけ笑った。
「では、今度の休みに、河岸の古書市へ行きませんか。口で言うより、見てもらうほうが早いので」




