第6話 問われて、偽って答えた者
約束の三日後、午後になって、ヴァイス伯爵家の父子が編纂室にやってきた。
伯爵閣下は、白髪まじりの背の高い方だった。
背筋がまっすぐで、口数が少ない。
典範を家訓に写したのは、閣下のお祖父様の代だと聞いている。
後ろに続くディートリヒ様は、父親より頭半分ほど背が低かった。
上等な上着の襟を立て、部屋に入るなり、狭い編纂室をぐるりと見回す。
「なんだ、ずいぶん埃っぽい所だな」
窓際の机で、ギルベルト様が拡大鏡を光らせた。
私は立ち上がって一礼する。
「編纂官補佐のヴァレンティーヌです。本日は、編纂官ハースに代わって条文を読ませていただきます」
「ああ、夜会の」
ディートリヒ様の口の端が、わずかに上がった。
エマ様が、お父様の陰で小さく身を縮める。
「なら話は早い。王子殿下を典範で追い払った方だ。条文の読み方には厳しいんだろう?」
「条文に書いてあるとおりに読むだけです」
ディートリヒ様は、私を味方だと思っているのかもしれない。
婚約者を典範で打ち負かした女なら、同じように典範で自分の婚約者を打ち負かしてくれる、と。
あの夜の私は、そんなふうに見えていたのだろうか。
胸の奥が、少しだけ冷えた。
「結構。第三十一条だ。婚約の前に偽りを述べた者は、婚約を解かれても異を唱えられない。エマは、詩を書いていることを隠していた。雑誌に、名前を変えて。隠し事は偽りだ。婚約は解くし、持参金の半分は、こちらが受けた迷惑の分として預かる」
伯爵閣下は黙って聞いていた。
ただ、眉間の皺が少しだけ深くなる。
迷惑の分として預かる。
ずいぶん都合のいい言い方だ。
エマ様は膝の上で両手を握りしめ、床の一点を見つめている。
ここで私が間違えれば、この方は、自分の好きなものを恥じたまま生きていくことになる。
「伯爵閣下。ヴァイス家の家訓は、典範の条文を写したものと伺っています」
「そうだ。祖父の代からな」
「では、第三十一条を読み上げます」
◇
私は、机の上に黒ずんだ革の写本を開いた。
レオン様が書庫から出してくれた、三代目の王の時代の写しだ。
「現在の写本では、第三十一条はディートリヒ様のおっしゃるとおりの文です。ですが、百五十年前の写字生が、三文字を書き落としています。こちらが、それより古い写しです」
息を吸う。
「『婚約の前に、問ひに偽りて答へし者は、その婚約を解かれるとも、異を唱うることを得ず』」
編纂室が、しんとした。
「問われて、偽って答えた者。尋ねられたことに嘘をついた者、という意味です。尋ねられなかったことを話さなかっただけでは、偽りにはあたりません」
「……写本の間違いなど、知ったことか」
ディートリヒ様の声が、少し上ずった。
「うちの家訓は、今の写本の字で写してある。ヴァイス家では、ヴァイス家の家訓の字がすべてだ」
「承知いたしました。では、ヴァイス家の家訓の写本を拝見できますか」
「屋敷の書庫にある。今日は持ってきていない」
「いいえ」
私は、机の端に置いてあった臙脂の革表紙を、そっと前に押し出した。
「こちらにございます」
伯爵閣下の目が、見開かれた。
金の箔押しの題字。
その下の、ヴァイス家の紋章の蔵書印。
「なぜ、これがここにある」
「先月、河岸の古書商が、ある貴族の子息から買い取ったものです」
答えたのは、戸口に立っていたレオン様だった。
「古い写本が市に出ると、図書館に知らせが来るようになっています。売り主の人相も、古書商が覚えていました」
伯爵閣下が、ゆっくりと息子を振り返る。
ディートリヒ様の顔から、血の気が引いていった。
伯爵閣下は写本を手に取り、表紙を開いた。
見返しに、古い字で三代分の当主の名が書き連ねてある。
いちばん下が、閣下ご自身の名だ。
閣下の指が、その名の上で長いあいだ止まっていた。
◇
「もう一つ、読ませていただきます」
私は、リンドホルム家の問答の書を開いた。
「一年前、婚約の前に、リンドホルム子爵がヴァイス家にお尋ねになった問いです。『ご子息に、借財はおありか』。答え、『一切ない』。署名は、ディートリヒ様ご本人です」
帳面を伯爵閣下の前に置く。
「家訓の写本を売らなければならないほどのお金が、何に要ったのか。私には分かりません。ただ、借財がなかったのなら、売る理由もなかったはずです」
「ディートリヒ」
伯爵閣下の声は低かった。
「借財は、いくらだ」
「ち、父上、これは、その」
「いくらだと訊いている」
「……金貨、二百枚。カードで、少し」
エマ様のお父様が、目を閉じた。
持参金の半分は、金貨百五十枚。
それを返したくなかった理由が、今ようやく分かった。
「第三十一条を、正しく読みます」
私は、誰の顔も見ずに言った。
「問われて偽って答えたのは、ディートリヒ様のほうです。この婚約は、リンドホルム家の側から解くことができ、ヴァイス家はそれに異を唱えることができません」
「典範の読み方は、以上じゃ」
窓際で、ギルベルト様がしゃがれた声で締めくくった。
伯爵閣下は、しばらく何も言わなかった。
それから、リンドホルム子爵とエマ様に向かって、深々と頭を下げた。
「持参金は、明日のうちに全額お返しする。愚かな息子が、申し訳ないことをした。借財は、この者に働いて返させる。家を継がせるかどうかは、それを見てから決める」
ディートリヒ様は、父親の背中を見つめたまま、一言も発しなかった。
◇
帰り際、エマ様が戸口で振り返った。
「セシリア様。わたくし、詩をやめなくていいんですね」
「尋ねられたら、そのときは正直に答えてください。それだけです」
エマ様は、初めて笑った。
泣き腫らした目のままで、それでも明るい顔だった。
扉が閉まると、どっと疲れが押し寄せてきた。
椅子に座り込んだ私の前に、湯気の立つ茶が置かれる。
「読み上げる声を、隣で聞けました」
レオン様だった。
「約束どおり、ですね」
「……たまたまです」
顔が熱いのを、茶の湯気のせいにする。
レオン様は何か言いかけて、外套の内側から一通の封筒を取り出した。
上質な厚手の紙に、紺の封蝋。
交差する二本のペンと、一冊の本。
王子妃教育で覚えた紋章の中にある。グラーツ公爵家だ。
「それと、これを預かってきました。……母からです」
あの人は、いつになく困った顔をしていた。
「グラーツ公爵夫人イレーネが、今度の安息日の晩餐に、あなたをお招きしたいそうです」




