第5話 問いに偽りて
閉館の鐘が鳴っても、私は閲覧室に残っていた。
南の窓際、三番目の机。
窓の外はもう暗く、机の上のランプだけが、開いた写本を照らしている。
編纂室の机より、ここのほうが考えがまとまる気がした。
第三十一条。
『婚約の前に偽りを述べし者は、その婚約を解かれるとも、異を唱うることを得ず』
何度読んでも、そう書いてある。
ディートリヒ様の読み方は、字面の上では間違っていない。
けれど、どこか引っかかる。
偽りを述べる、と、黙っている、は同じだろうか。
もし同じなら、婚約の前に口にしなかったことは、すべて偽りになってしまう。
好きな菓子も、苦手な季節も、子どものころの失敗も。
「まだいらしたんですか」
隣の机から、静かな声がした。
レオン様が、修繕の手を止めてこちらを見ている。
閉館後の閲覧室に、ランプが二つ並んで灯っている。昔と同じだった。
「第三十一条が、どうしても腑に落ちなくて」
「見せてください」
レオン様は椅子ごとこちらへ寄り、私の手元の写本を覗き込んだ。
外套の袖が、私の肘に触れそうで触れない。
それだけのことに、いちいち心臓が騒ぐのが悔しい。
「……この写本は、百五十年ほど前の写しですね」
「分かるのですか」
「紙と、綴じ糸と、この写字生の癖で。『し』の字の払いが長いでしょう」
言われてみれば、そうだった。
私は十年この写本を読んできて、一度も気づかなかった。
「少し、待っていてください」
レオン様は立ち上がり、閲覧室の奥の、鍵のかかった書庫へ消えた。
ひとりになった閲覧室は、驚くほど静かだった。
高い天井に、ランプの明かりが二つ分だけ届いている。
八歳のころから、ずっとこうだった。
閉館の鐘のあと、私が帰り支度を始めるまで、隣の机のランプは消えなかった。
あのころは、年上の少年がよほど修繕を好きなのだと思っていた。
机の端の辞書に、指を置く。
角の擦り切れた革が、手のひらに馴染んだ。
◇
戻ってきたとき、あの人は両腕に、黒ずんだ革の本を抱えていた。
表紙の角が、ほとんど丸くなっている。
「建国から三代目の王の時代の写しです。今ある写本の中では、いちばん古い」
「そんなものが、図書館に」
「修繕の順番待ちで、十年も書庫に眠っていました。本来は、原本の次に大切なものです」
レオン様は手袋をはめ、慎重に頁を繰った。
三十一、という古い数字の横で、指が止まる。
私は、息を詰めてその行を読んだ。
『婚約の前に、問ひに偽りて答へし者は、その婚約を解かれるとも、異を唱うることを得ず』
「問ひに……」
たった三文字。
百五十年前の写字生が、それを書き落としたのだ。
「問われて、偽って答えた者」
声に出すと、条文の形がまるで変わった。
「尋ねられたことに嘘をついた者、という意味です。尋ねられなかったことを黙っていても、偽りにはならない」
「ええ。古い婚約の習わしでは、婚約の前に両家が問いを交わしました。持参金の額、借財の有無、健康、宗旨。その答えに嘘があったときだけ、婚約を解かれても文句は言えない」
レオン様は、写本の余白に小さく残る、別の筆跡を指さした。
「ここに、三代前の編纂官の書き込みがあります。『問答の書を見よ』」
「問答の書」
「交わした問いと答えを書き留めたものです。今でも古い家は作っているはずです」
私は、エマ様の赤い目を思い出した。
子爵家は古い家だ。
お父様が、きっと何か残している。
「レオン様」
「はい」
「……ありがとうございます」
あの人は少しだけ目を瞬かせ、それから、いつものように眼鏡を押し上げた。
「六年ぶりに、隣の机に質問をいただけたので。私のほうこそ」
ランプを消して図書館を出ると、門の上の灯りがまだ点いていた。
門番の老人が、レオン様を見て小さく頷く。
迎えの馬車は、もう門の前で待っていた。
「……門の灯り」
「え?」
「父が言っていました。私の帰りが遅い日は、馬車が着くまで灯りを消さずに待っていた方がいる、と」
レオン様は、門の灯りを見上げたまま黙っていた。
それから、観念したように小さく息を吐く。
「門番が喋りましたか」
「父が、何度も聞いたそうです」
「……八歳の子どもが、暗い門の前で一人で馬車を待つのは、よくないと思ったので」
それだけです、とあの人は言った。
それだけのことを、十年続けた人なのだ。
馬車に乗り込んでから、窓越しに振り返った。
門の灯りは、馬車が角を曲がるまで、消えなかった。
◇
翌朝、エマ様はお父様の書斎から、一冊の薄い帳面を持ってきてくれた。
表紙に、リンドホルム家とヴァイス家の紋章。
一年前の日付。
ページを開くと、几帳面な字で、両家の問いと答えが並んでいる。
娘に病はあるか。無い。
持参金はいくらか。金貨三百枚、婚約の証に半分を先に納める。
詩のことは、どこにも書いていなかった。
尋ねられていないのだ。
エマ様は、偽ってなどいない。
「どんな詩を書いていらっしゃるのですか」
尋ねると、エマ様は耳まで赤くなった。
「……季節の詩です。窓から見える木が、芽吹いて、葉を落とすまで。それだけの」
恥ずかしそうに言いながら、指先が鞄の留め金を撫でている。
きっと、そこに書きかけの紙が入っているのだ。
この方にとって、それは隠し事ではなく、大切に仕舞っておいたものなのだろう。
そして、リンドホルム子爵が、ヴァイス家に尋ねた問いの一つ。
『ご子息に、借財はおありか』
『一切ない』
答えの横に、ディートリヒ様自身の署名があった。
「エマ様。ディートリヒ様が持参金を返したくない理由に、お心当たりは」
「……分かりません。でも、この春から、何度か、急にお金の話をされました」
エマ様がそう言ったとき、編纂室の扉が叩かれた。
レオン様だった。
外套の肩が朝露に濡れている。
手に、布に包んだ四角いものを持っていた。
「河岸の古書商が、今朝これを持ってきました。先月、ある貴族の子息から買い取ったそうです。図書館で引き取ってほしい、と」
布を解くと、臙脂の革表紙が現れた。
金の箔押しで、見慣れた文字が刻まれている。
『王家典範』
その下に、小さな蔵書印。
ヴァイス伯爵家の紋章だった。




