第4話 典範編纂室
「典礼院の筆頭評議員なら、裁可録を閲覧できます」
図書館へ向かう馬車の中で、レオン様はそう言った。
「裁可録?」
「陛下が裁可なさった書面の控えを、日付順に綴じた帳面です。典範の改正も、そこに記録される。六年前の改正案にも、原案を書いた者の名が残っているはずです」
私の名前が、帳面に残っている。
考えてみれば当たり前のことだ。
陛下は、十二歳の子どもの書いたものを、黙って典範に加えたわけではない。
きちんと手続きを踏んで、加えてくださったのだ。
「……閣下は、それを読んだのですね」
「おそらく。ただ、読んだだけなら、わざわざあなたに言いに来る理由がない」
レオン様は窓の外を見たまま、眼鏡を押し上げた。
その先を、あの人は言わなかった。
私も、訊かなかった。
◇
その日は、編纂室の扉の前まで案内してもらって帰った。
ギルベルト様は、目の治療で留守だった。
三日後、私は補佐として初めて、典範編纂室の扉を開けた。
閲覧室を抜けた、いちばん奥。
南向きの小さな部屋に、古い写本と辞書が天井までぎっしり並んでいる。
窓からの光に、細かな埃がきらきらと浮いていた。
閲覧室を通るとき、南の窓際の三番目の机に目をやった。
机の端に、角の擦り切れた古語の辞書が、十年前と同じように置いてある。
その隣の机では、黒い外套の人が写本の修繕をしていて、顔を上げずに小さく会釈をした。
「来たか、お嬢さん」
しゃがれた声がした。
窓際の大きな机に、痩せた老人が座っている。
白い眉の下で、分厚い拡大鏡をかけた目が、じろりとこちらを向いた。
典範編纂官、ギルベルト・ハース様だ。
「本日より補佐を務めます、セシリア・ヴァレンティーヌです」
「知っとる。夜会の話も聞いた」
ギルベルト様は拡大鏡を外し、目頭を揉んだ。
「第八十条を言うてみい」
挨拶の代わりが、それだった。
「『王家の定めに倣いて家の定めを立てし者は、その読み方を典範の編纂官に問うことを得る』」
「今の言葉で」
「典範を手本にして家訓を作った家は、その読み方を、編纂官に尋ねてよい」
「よし」
ギルベルト様は、机の脇に積まれた山を顎で示した。
手紙だ。
封蝋の色も紋章もばらばらの手紙が、私の腰の高さまで積み上がっている。
「全部、この三日で届いた」
「三日で、ですか」
「お嬢さんのおかげでな」
ギルベルト様は、面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
古い家の中には、典範の条文をそのまま写して、自分の家の家訓にしているところが少なくない。
王家に倣うのは名誉なことだし、何より自分で考えなくて済む。
ただ、写しただけで、ほとんど誰も読んでいなかった。
そこへ、あの夜会だ。
「うちの家訓にも第九十九条がある、息子が先月、真実の愛がどうのと口走った、どうすればいい。そういう手紙が、半分じゃ」
私は、思わず口元を押さえた。
「笑うな。向こうは真剣じゃぞ」
「申し訳ありません」
「わしはもう、細かい字が読めん。読んでも、目がすぐに霞む」
ギルベルト様は、拡大鏡を机に置いた。
その手が、かすかに震えている。
「陛下に引退を願い出てから、二年、代わりが来なかった。お嬢さんが来た。わしの代わりに読め」
「……はい」
私は外套を脱ぎ、窓際の空いた机に向かった。
座る前に、机の角度をほんの少しだけ直す。
閲覧室の三番目の机と、同じ角度に。
そうすると、窓からの光がちょうど左の肩越しに落ちる。
十年分の午後の光と、同じ落ち方だった。
ギルベルト様が、拡大鏡越しにそれをじっと見ていた。
◇
手紙を読み、返事の下書きを書き、ギルベルト様に見せる。
その繰り返しで、昼までに十二通が片付いた。
ほとんどは、本当に第九十九条の相談だった。
ある伯爵家の奥方は、息子が町の花売りの娘に真実の愛を誓ったと嘆いていた。
第九十九条が縛るのは王族だけで、伯爵家が写した条文は伯爵家の中の決まりにすぎない。
ですから、砦へ送る必要はございません。
ただ、ご子息の言葉が軽いものかどうかは、三年待てば分かります。
そう書くと、ギルベルト様は「嫌味が効いとる」と言って、そのまま封をさせた。
ある男爵家からは、家訓を写したときに条文を一つ飛ばしてしまった、という相談だった。
百年間、誰も気づかなかったらしい。
飛ばしたのは、第五十条。
食卓で主人より先に食べ始めてはならない、という条文だ。
今さら加えるべきかと大真面目に尋ねてくるので、私は返事の最後に一行だけ添えた。
百年、どなたもお困りにならなかったのなら、それが答えかと存じます。
手紙の向こうには、一通ごとに、困っている誰かがいる。
十年間、私は典範を覚えることはしてきた。
けれど典範で誰かの役に立ったことは、あの夜会まで一度もなかった。
返事を一通書き上げるたびに、肩のどこかが少しずつ軽くなっていく。
下書きの束を読み終えたギルベルト様が、拡大鏡越しに私の顔を見た。
「お嬢さん。六年前に、閲覧室で何か書いとったろう」
次の手紙に伸ばした手が、止まる。
「……なぜ、それを」
「いや。字に、見覚えがあるような気がしただけじゃ。年寄りの勘違いかもしれん」
ギルベルト様はそれきり、手元の写本に目を戻した。
六年前、この方は何をしていたのだろう。
訊こうとして、やめた。
今日は初日で、手紙はまだ山ほどある。
午後、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。こちらが、典範の編纂室でしょうか」
入ってきたのは、私と同じくらいの年の令嬢だった。
栗色の髪をきっちりと結い上げ、胸の前で小さな鞄を抱えている。
目の縁が、赤く腫れていた。
「わたくし、リンドホルム子爵家のエマと申します。編纂官様に、読み方を伺いたい条文があって」
「補佐のヴァレンティーヌです。どうぞ、お掛けください」
エマ様は椅子に浅く腰掛け、鞄から一通の手紙を取り出した。
手紙を持つ指先が、白くなるほど力んでいる。
「婚約者から、婚約を解くと言われました。ヴァイス伯爵家のディートリヒ様です」
ヴァイス伯爵家。
確か、典範をそっくり写して家訓にしている家の一つだ。
「理由は、典範の第三十一条だそうです」
エマ様の声が震えた。
「婚約の前に偽りを述べた者は、婚約を解かれても異を唱えられない。わたくしが偽りを述べていたから、婚約は解くし、お納めした持参金の半分も返さない、と」
「偽り、とは」
「わたくし、詩を書いているんです。別の名前で、雑誌に」
エマ様は、うつむいたまま言った。
「それを、婚約のときに言わなかった。黙っていたのは偽りだ、と」
私は、手紙に目を落とした。
角張った、自信に満ちた字。
末尾に、こう書いてある。
『三日後、父とともに典範編纂室に伺う。編纂官殿の前で、第三十一条の正しい読み方を確かめさせていただく』




