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真実の愛を見つけたとおっしゃるので、王家の家訓を読み上げて差し上げました  作者: ま
第1章「読み上げた夜のあと」

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第3話 半分の裁可



 翌朝、王宮から迎えの馬車が来た。


 陛下がお呼びだという。

 父は「行ってきなさい」とだけ言って、私の襟元を一度だけ直した。


 王宮の回廊は、十年間ほとんど毎日歩いてきた道だ。

 礼法の講義室、ダンスの広間、外国語の先生が待つ小部屋。

 どの扉の前でも、私はいつも少し早く着いて、殿下がいらっしゃるのを待っていた。


 今朝は、誰も待たなくていい。

 それだけで、見慣れた回廊がまるで知らない建物のように広く見える。

 すれ違う侍女たちが、昨夜の噂を知っている目で、それでも丁寧に頭を下げていく。


 通されたのは、謁見の間ではなく陛下の執務室だった。

 壁一面の書棚と、書類の積まれた大きな机。

 その前に、黒い外套の背中がまっすぐ立っている。



「おはようございます、セシリア・ヴァレンティーヌ嬢」



 レオン様が振り返って、一礼した。

 昨夜と同じ外套なのに、髪がきちんと撫でつけられている。

 朝一番に来ると言ったのは、本当に朝一番のことだったらしい。



「座りなさい、セシリア」



 陛下は机の向こうで、ペンを置いたところだった。

 机の上には、乾いたばかりの書面が二枚並んでいる。



「一枚目。典範第十二条により、第一王子アルベルトとセシリア・ヴァレンティーヌの婚約を解く」



 陛下の指が、二枚目に移る。



「二枚目。典範第六十一条により、レオン・グラーツがセシリア・ヴァレンティーヌに求婚することを許す」



 二枚の書面に、同じ朱の印が押されていた。


 十年の婚約が、紙一枚で解かれた。

 そして、その隣の紙一枚で、新しい扉が開いている。


 もっと何か感じるものだと思っていた。

 悲しいとか、悔しいとか、せいせいしたとか。

 けれど胸の中は、雨上がりの閲覧室のように静かだ。

 十年分の荷物を、ようやく床に下ろせたような静けさだった。



「今朝この男が来てな。挨拶もそこそこに、第六十一条の裁可をいただきたいと言う。朝食の前にだぞ」


「申し訳ありません。順番を守りたかったので」



 レオン様が真顔で答え、陛下が小さく笑った。

 陛下が笑うのを、私は久しぶりに見た気がした。




◇




「ただし」



 陛下は笑みを収め、書面の端を指で叩いた。



「第六十二条は、私にも曲げられぬ。婚約を解かれた令嬢は、解かれた日より百日のあいだ、新たな婚約を結ばない。今日から百日だ」


「承知しております、陛下」



 私が答えると、陛下は少し意外そうな顔をした。



「昨夜のうちに気づいたか」


「帰りの馬車で。……レオン様は、最初から数えていらしたようですけれど」



 隣で、レオン様が眼鏡を押し上げた。

 耳の先が、ほんのわずかに赤い。



「あの条文の由来を、覚えているか」


「はい。百五十年ほど前、婚約を解かれた令嬢が、その翌日に父親の政敵の家へ嫁がされたことがあったと。令嬢を取り合いの駒にしないために、百日は誰も手を出せないようにした。そう習いました」


「そうだ。あれは、令嬢を守るための条文だ」



 陛下は私をまっすぐ見た。



「だから百日は、お前のための時間だ。誰にも急かされずに、自分で決めなさい。この男を待たせるのも、断るのも、お前の自由だ」


「断りません」



 言ってから、自分の声の大きさに驚いた。

 レオン様が、こちらを見ないようにしているのが分かる。



「……そうか」



 陛下は目元をゆるめ、それから引き出しを開けた。




◇




「もう一つある。十年分の詫びだ」



 差し出されたのは、革の表紙の辞令だった。



「典範編纂室に、ギルベルト・ハースという編纂官がいる。七十八になる。目が弱って、もう細かい字が読めんと言って、引退を願い出ている」


「ギルベルト様……」


「その下で、編纂官補佐を務めてもらいたい。いずれは跡を継いでもらう」



 息が止まった。


 典範編纂官。

 王家の家訓を預かり、写本を校正し、条文の読み方を定める役目だ。


 条文の文字は変えられない。

 けれど、その文字をどう読むかは、編纂官の答えが王家の答えになる。

 女性が就いた例は、建国以来一度もない。


 王子妃になれば、典範は守るものだった。

 編纂官になれば、典範は預かるものになる。

 似ているようで、まるで違う。



「陛下。女が典範を預かった例は」


「無いな。だが、典範のどこにも、女が就いてはならぬとは書いていない。そうだろう?」



 私は頭の中で、百八条を最後までめくった。

 書いていない。

 一行も。



「……書いてございません」


「では決まりだ。図書館には、この男がいる。机の場所には困らんだろう」



 陛下は辞令を私の手に載せ、それからレオン様に目を移した。

 何かを思い出すように、少しだけ目を細める。



「そういえば、六年前の改正案の古語は、図書館の方に直していただいたと聞いていたが」


「……私です、陛下」


「そうか。六年、黙っていたか」



 陛下はそれ以上何も言わず、ペンを取り直した。




◇




 執務室を出ると、長い回廊に朝の光が差し込んでいた。


 辞令を胸に抱えたまま、私はしばらく歩けなかった。

 昨日の今ごろは、王子妃になるはずだった。

 今日の私は、編纂官補佐で、百日後に婚約する予定の、ただのセシリアだ。


 今朝までの私には、明日の予定が十年先まで決まっていた。

 今は、明日のことしか決まっていない。

 図書館へ行って、編纂室の扉を開ける。

 それだけのことが、なぜかひどく嬉しい。



「図書館までお送りします。編纂室の場所を、お見せしたいので」


「お仕事は、よろしいのですか」


「今日の私の仕事は、それです」



 並んで歩き出したところで、回廊の向こうから杖の音が近づいてきた。


 灰色の髭をたくわえた、背の高い老紳士だった。

 仕立てのいい黒の礼服に、銀の握りの杖。


 ドレクセル公爵閣下。

 亡くなった王妃様の兄君で、アルベルト殿下の伯父にあたる方だ。

 典礼院の筆頭評議員でもある。


 私とレオン様は脇に寄り、一礼した。


 閣下は通り過ぎかけて、私の前で足を止めた。



「ヴァレンティーヌ嬢。昨夜は、甥が世話になったそうだな」


「……お騒がせいたしました、閣下」


「なに、騒いだのは甥のほうだ。あれは昔から、口ばかり達者でな」



 閣下は穏やかに笑った。

 目だけが、少しも笑っていなかった。



「ところで。第百条を書いたのは、あなただそうだな」



 背筋が、冷たくなった。


 それを知っているのは、陛下と、レオン様と、私だけのはずだ。

 六年前、改正案は陛下に直接お渡しした。

 名前を明かしたのは、その一度きり。


 隣で、レオン様が一歩だけ前に出る。

 外套の背中が、私と閣下のあいだに入った。



「十二歳の子どもの作文を、王家の法とは呼ばんよ」



 杖の音が、ゆっくりと遠ざかっていった。

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