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真実の愛を見つけたとおっしゃるので、王家の家訓を読み上げて差し上げました  作者: ま
第1章「読み上げた夜のあと」

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第2話 お返事だけ

 振り返ると、黒い外套の人が立っていた。


 銀縁の眼鏡に、窓からの灯りが小さく映っている。

 王立図書館の副館長、レオン・グラーツ様だ。

 公爵家の次男でありながら、夜会よりも書庫を好む変わり者として知られている。



「レオン様。いらしていたのですか」


「典範が持ち出されたと聞いて、飛んできました。あれは図書館の管理物ですから」



 レオン様は真面目な顔で眼鏡を押し上げる。

 それから、ほんの少しだけ口元をゆるめた。



「というのは口実で。第百条を、あなたがどんな顔で読むのか見たかったんです」



 心臓が、どきりと跳ねる。



「……気づいていらしたのですか」


「気づくも何も。あの改正案の古語を一緒に直したのは、私ですよ」



 第百条は、建国王の時代の条文ではない。

 六年前、十二歳の私が書いて、陛下に献上した改正案だ。




◇




 あの年の誕生日、殿下は「必ず行く」と約束してくださった。

 私は一日中、窓の外を見て待っていた。

 殿下はいらっしゃらなかった。


 翌日、理由を尋ねた私に、殿下は笑っておっしゃった。

 あんなの、言葉の綾だよ、と。


 誕生日の約束だけではない。

 剣術大会を見に来てほしいと言われて、雨の観覧席で三時間待ったことがある。

 殿下は、大会に出てさえいなかった。

 手紙の返事を書くと言われて、一年待ったこともある。


 そのたびに殿下は、同じ言葉で笑う。

 そのたびに私は、王子妃教育の笑顔で頷く。


 その夜、閉館間際の図書館の閲覧室で、私は泣きながら一つの条文を書いた。

 王族の言葉は、軽くあってはならない。

 十二歳の子どもの字で、何度も書き直した。


 どうしても古い字体が分からなくて、私は初めて、隣の机まで歩いていった。

 そこではいつも、年上の少年が黙って写本の修繕をしている。

 話しかけたことは、一度もなかった。



「この字は、これで合っていますか」



 少年は顔を上げ、私の紙を長いあいだ見つめた。

 それから何も訊かずに、一文字ずつ余白に正しい古語を書いてくれた。


 陛下は、十二歳の子どもが書いたその条文を、何も言わずに典範へ加えてくださった。

 殿下は、それさえ一度も読まなかったけれど。




◇




「八歳のあなたは、典範の字が読めずに閲覧室の隅で泣いていました。十二歳のあなたは、泣きながら条文を書いていた」



 レオン様は、手すりの上の典範にそっと手を置く。



「あなたが殿下のためにどれだけのものを積み上げてきたか、ずっと見ていました」



 ずっと。


 その言葉が、古い記憶の引き出しを一つずつ開けていく。


 八歳の冬。

 泣いて顔を上げたら、机の端に古語の辞書が置いてあった。

 誰かの忘れ物だと思って、閉館まで持ち主を待った。

 誰も取りに来なかったから、その辞書は今も三番目の机の端にある。


 十一歳の秋。

 雨の観覧席で待っていたら、いつの間にか隣の席に乾いた布が置いてあった。

 翌朝、私はそれを畳んで、図書館の隣の机にそっと返した。

 どうしてそこへ返そうと思ったのか、自分でも分からなかった。



「……辞書も、布も」


「はい」



 レオン様は、それだけ言った。

 言い訳も、手柄話もしない。

 この人は、六年前もそうだった。



「だから、ずっと黙っていました。でも、もう黙っている理由がなくなりましたので」



 レオン様は私の前に立ち、胸に手を当てる。



「セシリア・ヴァレンティーヌ嬢。あなたが読み上げる声を、これからは私のそばで聞かせてもらえませんか」



 心臓が、うるさいくらいに鳴っている。


 求婚されたのだ、と理解するまでに、少し時間がかかった。

 十年間、私は婚約者のいる身だった。

 誰かに何かを申し込まれたことなど、一度もない。


 どんな顔をすればいいのか分からなくて、私は典範に目を落とし、わざと澄ました顔を作る。



「……典範によれば、婚約を解かれた令嬢への求婚は、陛下の裁可を得てからでなければなりません」


「第六十一条ですね。存じています」



 レオン様は、即答した。



「ですから明日の朝一番に、陛下のところへ参ります。今夜はお返事だけ、先にいただけませんか」



 王子妃教育の笑顔が、うまく作れない。

 作らなくていいのだと気づいたのは、口がもう動いたあとだった。



「はい。喜んで」



 レオン様は、ほっとしたように息を吐く。

 この人でも緊張するのだ、と思うと、少しおかしい。



「……もう一つだけ、お願いがあります」


「何でしょう」


「明日から、また閲覧室に来ていただけますか。南の窓際、三番目の机に」



 レオン様は典範を抱え直し、少しだけ目を逸らした。



「王子妃教育が終われば、あなたはもう図書館に通う理由がなくなる。それが、この六年でいちばん怖かったことなので」



 求婚の言葉より、そちらのほうがずっと胸に刺さった。



「……辞書を、置いたままにしてありますもの」


「はい。知っています」



 典範を抱えて去っていく黒い外套を、私はテラスから見送った。

 大広間の扉の前で一度だけ振り返り、あの人は小さく頭を下げる。

 私も、同じだけ頭を下げた。




◇




 帰りの馬車で、父は珍しく口数が多かった。


 大広間でのことは、ひとつも咎められない。

 ただ、十年よく務めた、もういいのだぞ、と。

 それだけを、窓の外を見たまま二度言う。



「テラスで、グラーツの次男と話していたな」


「……ご覧になっていたのですか」


「お前の帰りが遅い日は、閉館のあとも、うちの馬車が着くまで門の灯りを消さずに待っていた男だ。門番から何度も聞いている」



 知らなかった。

 父は咳払いを一つして、また窓の外を向いた。


 父が黙ると、車輪の音だけになる。

 私は膝の上で手を組み、いつもの癖で、頭の中で典範をめくり始めた。

 眠れない夜は、第一条から順に唱えるのだ。


 第五十九条、第六十条、第六十一条。

 婚約を解かれた令嬢への求婚は、国王の裁可を得てのちに行う。


 そして、第六十二条。



『婚約を解かれた令嬢は、解かれた日より百日のあいだ、新たな婚約を結ばない』



 私は、はっと顔を上げた。


 今夜はお返事だけ、先にいただけませんか。

 あの人は、そう言ったのだ。


 求婚の返事と、婚約は違う。

 私の婚約が正式に解かれるのは、明日、陛下が裁可なさったとき。

 新しい婚約を結べるのは、そこから百日が過ぎてからだ。

 典範の古語を直せる人が、この条文を知らないはずがない。


 あの人は最初から百日を数えたうえで、お返事だけを求めたのだ。



「セシリア、どうした」


「いえ、お父様。……なんでもありません」



 顔が熱い。

 窓硝子に映る自分が、見たことのない顔をしている。


 馬車の窓に額をつけて、私は指を折って数え始めた。

 百日後は、夏の終わりだ。

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