第1話 真実の愛を、見つけたとおっしゃるので
「セシリア・ヴァレンティーヌ! 今この場をもって、君との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業を祝う夜会。
楽団の演奏が、ぴたりと止んだ。
シャンデリアの下で、百を超える視線が一斉にこちらを向く。
声の主は、この国の第一王子アルベルト殿下。
私の婚約者だ。
いや、たった今「元」になったと宣言なさった方、と言うべきだろうか。
殿下の腕には、淡い桃色のドレスの令嬢がしがみついている。
男爵家のフローラ様だ。
「僕は見つけたんだ。真実の愛を!」
どこかで、扇の落ちる音がした。
殿下がフローラ様を連れ歩くようになったのは、この春のことだ。
はじめは学院の中庭で、次は王宮の庭園で。
やがて、私が同席するはずだった隣国の大使との茶会にまで。
その茶会で殿下が披露した隣国の古い詩は、前の晩に私が書き起こしてお渡ししたものだった。
大使に出どころを尋ねられて、殿下は迷わず「フローラが教えてくれた」と答えた。
フローラ様がきょとんとしていたのを、私はよく覚えている。
それでも、何も言わなかった。
婚約は家と家の、そして王家と国との約束だから。
私は手にしていたグラスを給仕に預け、殿下に向き直る。
そして、にこりと微笑んだ。
十年の王子妃教育で、いちばん最初に身につけたのがこの笑顔だ。
「殿下。確認させていただいてもよろしいでしょうか。殿下は今、真実の愛を見つけた、とおっしゃいましたね?」
「そうだ」
「お相手は、こちらのフローラ・ベルネ男爵令嬢。そして、そのことを皆様の前で宣言なさる。そういうことでよろしいですね?」
「くどいぞ! 僕、アルベルト・エル・グランディアは、ここにいる全員の前で宣言する。フローラこそが僕の真実の愛だ!」
三回。
確認は、それで十分だった。
「承知いたしました」
深く一礼してから、壁際の白髪の典礼官に声をかける。
「典礼官殿。控えの間の書見台から、『王家典範』をお持ちいただけますか」
典礼官の顔から、すうっと血の気が引いた。
「典範? あんな古臭い家訓集、読んでいる王族なんかいないさ」
殿下が鼻で笑う。
それは違う。
陛下は殿下が十歳のときから、毎年の誕生日に典範の写本を贈っていらした。
殿下はそれを開きもせずに、書庫へしまわせていた。
その十冊の埃を払っていたのは、私だ。
やがて典礼官が、両腕に抱えるほどの本を運んでくる。
金の留め金に、王家の紋章。
建国王の時代から書き継がれてきた、グランディア王家の家訓集だ。
留め金を外すと、古い羊皮紙の匂いがふわりと立った。
十年間、ほとんど毎日嗅いできた匂い。
それだけで、指先の冷たさが引いていく。
「では殿下。ご宣言に関わる条文を、読み上げて差し上げますね」
◇
「第十二条。『王族の婚約は、国王の裁可をもって成り、国王の裁可をもってのみ解かれる』。殿下おひとりのお言葉では、婚約は破棄できません」
「そ、そんなもの、父上にお願いすれば済む話だ!」
「ええ。ですから、次に参りましょう」
頁を繰る。
「第九十九条」
その番号を口にした瞬間、壁際の年配の貴族たちが、はっと顔を上げた。
知っている方は、知っているのだ。
この国の王家が、一度割れかけた夜のことを。
「『王族が真実の愛を宣言したときは、その相手とともに北のグレイ砦に赴き、三年のあいだ民と同じ暮らしをすること。三年を経てなお愛が変わらぬときに限り、国王はその婚姻を許す。その間、宣言した者の王位継承権は停止する』」
音という音が、大広間から消えた。
「……は?」
三代前の国王陛下は、真実の愛を理由に隣国の王女殿下との婚約を破棄なさった。
そのせいで同盟が崩れ、北の国境では三年も戦が続いた。
この条文は、そのあとに書き加えられたものだ。
人垣の中で、宰相閣下が目を閉じて小さく首を振るのが見えた。
閣下のお祖父様は、その戦で北の国境から戻らなかったと聞いている。
あの戦を覚えている家にとって、第九十九条は冗談で口にしていい番号ではない。
「本当に真実の愛なら、三年くらいどうということはないでしょう? というのが、典範の考え方ですわ」
「う、嘘だ! そんな条文、聞いたこともない!」
「お読みになっていないからですわ。殿下の書庫の写本にも、九十九頁に同じことが書いてございます。十冊とも」
殿下の顔が、赤から青へと色を変えた。
典範の講義の時間、殿下はいつも窓の外を眺めていらした。
言い返す言葉を、ひとつもお持ちではないのだ。
「嘘ではない」
低い声が、大広間の奥から響いた。
人垣が割れる。
執務で遅れるはずだった国王陛下が、そこに立っていらした。
「アルベルト。お前が誕生日のたびに書庫へ放り込んでいた本に何が書いてあったか、ようやく分かったようだな」
「ち、父上! 撤回します! 今のは言葉の綾です!」
殿下が陛下の足元へ転がり出る。
抱き寄せていたはずのフローラ様のほうは、もう見ようともしない。
「セシリア、君からも言ってくれ! 僕たちは元通りだ。な?」
伸ばされた手を、一歩下がってよける。
「殿下。撤回についても、典範に定めがございます」
私は、百の数字が振られた頁を開いた。
「第百条。『一度宣言した言葉を、己の都合で翻した王族は、言葉の重みを知らぬ者とみなす。その者の言は、以後、王命として扱わない』」
殿下の手が、宙で止まった。
視界の端で、陛下がほんの一瞬、何かを思い出すように目を細める。
「宣言を守れば、三年の砦暮らし。撤回すれば、殿下のお言葉はもう誰にも届きません。どちらをお選びになっても、ご自分のお言葉の結果ですわ」
殿下は、膝から崩れ落ちた。
そのとき、細い声が割って入った。
「あのう。北の砦って、寒いんですか?」
フローラ様だった。
桃色のドレスの裾をたくし上げ、床にへたり込んだ殿下の横にしゃがみ込んでいる。
「わたし、平気です。実家は北の端なので、雪かきは得意なんです。アルベルト様、一緒に行きましょう? 真実の愛なんですよね?」
大広間が、別の意味で静まり返った。
「決まりだな」
陛下が短く言う。
「第一王子アルベルトは、典範第九十九条に従い、フローラ・ベルネ男爵令嬢とともにグレイ砦にて三年を過ごすこと。典礼官、記録せよ」
「嫌だ! 寒いのは嫌だ! セシリア!」
近衛騎士に両脇を抱えられて、殿下が連れ出されていく。
その後ろを、フローラ様が小走りについていった。
「アルベルト様、毛糸の靴下を編んであげますね!」
大広間の扉が、重たい音を立てて閉じる。
「セシリア。愚かな息子が、すまなかった」
「もったいないお言葉です、陛下」
「十年分の詫びは、改めてさせてもらう。今夜はもう休みなさい」
言われて初めて、私は典範を胸に抱きしめたままだったことに気がついた。
◇
夜風の通るテラスに出ると、ようやく息ができた。
背後の窓から、ワルツの調べが漏れてくる。
手すりに典範を置き、その上に両手をつく。
指先が、今になって少し震えていた。
眼下の庭園では、噴水が月の光を砕いている。
ついさっきまで大広間で起きていたことが、誰かの書いた物語のように遠い。
終わったのだ。
十年。
八歳で写本を渡された日から、今夜まで。
古い字体が読めなくて、辞書を何冊も広げて、一行ずつ書き写した。
十歳で、百八条をすべて暗唱した。
いつか殿下の隣で、この国の決まりを守る側に立つのだと思っていた。
ほっとしたのか、寂しいのか、自分でもよく分からない。
ただ、明日から何をすればいいのかだけが、まるで思いつかなかった。
「お見事でした」
背後から、静かな声がした。




