第10話 消えた頁
「わしが、起草した」
ギルベルト様は、三番目の机の前に立ったまま言った。
閉館後の閲覧室に、ランプが二つだけ灯っている。
その明かりの中で、老人の顔の皺がいつもより深く見えた。
「六年前の秋じゃ。わしはまだ典礼官じゃった。ある晩、陛下に呼ばれてな。小さな紙を一枚、渡された」
ギルベルト様は、胸のポケットから拡大鏡を取り出し、指先でもてあそんだ。
「子どもの字じゃった。何度も消して、書き直した跡があった。古語だけは、妙にきちんとしとる。陛下はおっしゃった。これを、典礼官の名で清書して、起草の手続きを踏んでくれ、と」
「それで、ギルベルト様が」
「清書して、起草者の欄に、わしの名を書いた。原案の欄には、お嬢さんの名をな。陛下が裁可なさって、第百条になった」
「百番は、先々代のときに古い条文が削られて、番号だけが空いとった。陛下は、そこに入れなさったんじゃ」
私は、言葉が出なかった。
あの夜、私は泣きながら紙に向かっていた。
書き終えたとき、それが本当に典範に加わるとは、思ってもいなかった。
ただ、書かずにはいられなかっただけだ。
陛下にお渡ししたのも、叱られる覚悟でのことだった。
六年前、私は改正案を陛下にお渡ししただけだった。
その先で何があったのか、考えたこともない。
陛下は、十二歳の子どもの書いたものを、正しい手続きで典範に加えるために、典礼官を一人呼んでくださったのだ。
「編纂室で、お嬢さんの字を見て思い出した。あのときの子どもじゃと」
「では、ギルベルト様が証言してくだされば」
「閣下はこう言うじゃろう。耄碌した年寄りの記憶など当てにならん、とな」
ギルベルト様は、拡大鏡をポケットに戻した。
「実際、わしの目は霞んどる。記憶が霞んどらんと、誰が言える。帳面が要る。裁可録の、あの日の頁じゃ」
「閉架を開けます」
レオン様が、外套の内側から鍵束を取り出した。
◇
閉架は、閲覧室の床下にあった。
細い石の階段を降りると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
ランプを掲げると、背の高い書棚が奥へ奥へと続いていた。
王家の記録、各地の台帳、古い条約の写し。
この国の三百年分の紙が、ここで眠っている。
閲覧室には十年通った。
けれど、その床下にこんな場所があることを、私は知らなかった。
階段の途中で、石壁に古い字が刻まれているのが見えた。
紙を守る者は、紙より先に死ぬ。
修繕室の誰かが、何百年も前に彫ったものだという。
「足元に気をつけて」
レオン様が、振り返らずに手を差し出した。
私は少し迷ってから、その手を取った。
指が長くて、紙の縁で切ったらしい小さな傷がいくつもある。
思っていたより、ずっと温かかった。
ギルベルト様は、杖をつきながら後ろをついてくる。
何も言わなかったけれど、見ないふりをしてくれているのは分かった。
裁可録の棚は、閉架のいちばん奥にあった。
一年ごとに一冊。
赤い革の背に、年号が金文字で刻まれている。
六年前の一冊を、レオン様が慎重に引き出した。
閲覧台に置き、手袋をはめて、頁を繰る。
夏の終わり。
初秋。
陛下の裁可が、日付順に並んでいる。
ある伯爵家の相続の許可、橋の修繕の予算、北の街道の通行税。
「お嬢さんの誕生日は、いつじゃ」
「秋の、九日目です」
「献上はその数日後じゃった。わしが清書したのは、さらにその三日後」
レオン様の指が、ゆっくりと頁を進んでいく。
秋の十日目、十一日目、十二日目。
十三日目の裁可のあと。
次の頁は、秋の十七日目になっていた。
「……飛んでいる」
レオン様が、低い声で言った。
十四日目から十六日目までの三日分。
陛下が一日も裁可をなさらない日など、この帳面には一度も無い。
「頁が、足りない」
ギルベルト様が、杖を握る手に力を込めた。
拡大鏡を取り出し、帳面に顔を近づけ、十七日目の頁を睨みつける。
霞んだ目で、それでも何度も日付を確かめていた。
「……わしが清書した日は、この中にある」
しゃがれた声が、低く震えた。
「あの日の頁だけが、ない」
閉架の冷たさが、足元から這い上がってくる。
偶然、頁が抜け落ちたのではない。
誰かが、あの日のことを消したのだ。
それも、審議の申し立てよりずっと前に。
◇
レオン様は、帳面を閲覧台の上で大きく開いた。
綴じ目の奥を、ランプの光に近づける。
私は、息を詰めて覗き込んだ。
綴じ目の際に、ごく細い紙の縁が残っていた。
刃物で、根元から切り取った跡だ。
目を凝らさなければ分からないほど、きれいに。
「切り取って、それで終わりではありません」
レオン様の声は、いつもどおり静かだった。
けれど、帳面を押さえる指に、力が入っている。
「一枚だけ切り取れば、綴じが緩んで、対になった頁が抜け落ちます。そうならないように、綴じ直してある」
あの人は、綴じ糸を指さした。
他の頁の糸は、年月で黄ばみ、ところどころ擦り切れている。
その部分だけ、糸が白かった。
まだ新しい。
「ごく最近、誰かが綴じ直したんです。閉架に入れて、裁可録の綴じを解いて、また元どおりに綴じられる誰かが」
「閉架の鍵は、館長とレオン様しか」
「ええ。だから、閣下ご本人が入ったわけではない」
レオン様は、白い糸の結び目を、ランプの光の中でじっと見つめた。
糸は綴じ目の端で、小さく二重に巻かれ、内側へ折り込まれている。
私には、ただの結び目にしか見えなかった。
「……ギルベルトさん、拡大鏡を」
受け取った拡大鏡を結び目に当てて、あの人は長いあいだ動かなかった。
ランプの炎が、かすかに揺れる。
閉架の冷たい空気の中で、自分の心臓の音だけがうるさかった。
やがて、レオン様は拡大鏡を下ろした。
「この結び方は、よその製本屋はしません。私が十二のときに、最初に教わった結び方です」
あの人は、ゆっくりと顔を上げた。
「この綴じ方は、図書館の修繕室の手です」




