第11話 修繕台帳
あの子の馬車が角を曲がるまで、私は門の下に立つ。
十年、そうしてきた。
灯りを消すのは、車輪の音が聞こえなくなってからだ。
今夜も、それは変わらない。
ギルベルトさんは、一足先に辻馬車で帰っていった。
別れ際、杖の先で私の靴をつついて、「顔に出とるぞ、副館長」とだけ言う。
何が出ているのかは、訊かずにおく。
閲覧室を抜けて、修繕室に戻る。
閲覧室の西の端、糊と古い革の匂いのする細長い部屋だ。
十二の春から、私はこの部屋で育った。
作業台の上に、赤い革の裁可録が置いてある。
閉架のランプ一つでは、結び目がどちらへ折れているかまでは確かめきれなかった。
館長には明日話すと決めて、私はあの帳面を上へ運んでいた。
◇
修繕台帳は、壁際の棚の下段に並んでいる。
この図書館で直した本は、一冊残らずここに記される。
日付、書名、傷みの具合、直した者の名。
三百年分、百冊を超える。
今年の一冊を開く。
春の終わりから、今日まで。
写本の背の張り替え、地図の裏打ち、虫食いの穴埋め。
弟子のヨハンの丸い字と、ミアの細い字と、私の字。
裁可録の名は、どこにもない。
念のため、閉架の出入りを書き留める帳面も繰る。
私の鍵は、一度も私の手を離れていない。
館長の欄は、いつもどおり空白だ。
あの人は、自分の出入りを書かない。四十年、誰もそれを咎めなかった。
私は拡大鏡を手に、もう一度、白い糸の結び目を覗き込む。
糸は綴じ目の端で二重に巻かれ、内側へ折り込まれている。
ここまでは、修繕室の誰がやっても同じだ。
違うのは、折り込む向きだった。
左へ、折れている。
私は右へ折る。
ヨハンとミアに結び方を教えたのは私だから、二人も右へ折る。
この部屋で左へ折るのは、一人しかいない。
左利きの、私の師匠だけだ。
◇
十二の春、私はこの台の前に立たされた。
父は王家の記録を預かる家の当主で、次男の私に家を継ぐ道はなかった。
本ばかり読んでいるなら、本を直す者になれ。
そう言われて、この図書館に預けられた。
館長は、最初の日に一本の糸をくれた。
結び方を教わり、百回結ばされた。
百一回目に、館長は私を閉架の石段へ連れて降り、石壁の字を指さした。
「紙を守る者は、紙より先に死ぬ。覚えておけ、レオン。私たちは、自分より長く残るものの番をしているんだ」
その人が、裁可録の頁を切った。
作業台の椅子に座ったまま、私は糸の端を見ている。
ランプの芯が、じり、と小さく鳴った。
切られた三日分に、何が書いてあったかは知っている。
秋の十六日目の頁。
典範第百条の裁可。
起草者の欄に、典礼官ギルベルト・ハース。
原案の欄に、セシリア・ヴァレンティーヌ。
十八で閉架の鍵を預かった日、私が最初に開いたのが、あの頁だった。
それから何度も、閉架に降りるたびに読んだ。
十二の子どもの名前が、王家の帳面に正しく記されている。
それを確かめるのが、好きだった。
あの子は、自分の名前が帳面に残っているはずだと、私の口から聞いただけだ。
この目で見たことは、まだ一度もない。
起草者の欄に誰が署名したのかも、あの子は今夜まで知らなかった。
私は、あの頁の中身を話さなかった。
典礼院の筆頭評議員は、裁可録を読める。
知っていて、黙っていた。
あの頁は閉架の奥にあって、私の鍵の内側にあるのだから、大丈夫だと思っていた。
その頁が、私の鍵の内側で消えた。
右の手のひらを見る。
閉架の階段で、あの子の手を引いた。
指先が、紙のように冷たかった。
十年、隣の机にいて、触れたのは今夜が初めてだ。
あの子は少し迷ってから、私の手を取った。
その迷った分だけの間を、私はたぶん一生忘れない。
テラスで「今夜はお返事だけ」と言ったのは、百日を数えていたからだ。
あの夜は返事だけもらって、正式な申し込みは、百日が明けてから陛下の前でする。
順番を守れば、誰にもあの子を責めさせずに済む。
そう思っていた。
順番を守っている間に、あの子の名前は帳面から切り取られていた。
私が守っていたのは、順番だけだったのかもしれない。
それでも、あの子に言っていないことがある。
百日が明けたら、もう一度求婚する。
今度は正しい順番で、何一つ省かずに。
テラスで言いそびれたその一言を、まだ口にしていない。
◇
「まだ灯りを消していないのか、レオン」
戸口に、館長が立っていた。
白い髪を後ろで束ね、寝間着の上に古い外套を羽織っている。
館長の住まいは、図書館の裏手の小さな家だ。
窓から、修繕室の灯りが見えたのだろう。
館長の目が、作業台の上の赤い革で止まった。
「……閉架から、出したのか」
「結び目が、左に折れています」
館長は、何も言わなかった。
しばらく戸口に立っていて、それから、ゆっくりと中に入ってきた。
私の向かいの椅子に腰を下ろすと、両手を膝の上で組んだ。
左の親指の腹に、糸で擦れた古い胼胝がある。
「夜会から、五日目の晩だった」
館長は、帳面ではなく、私の顔を見て話した。
「ドレクセル公爵閣下が、典礼院の命令書を持ってお見えになった。裁可録の三日分に誤記がある。典礼院で改めるから、外して届けよ。修繕台帳には記すな、と」
「中身を、読みましたか」
「読んでいない。裁可を読むのは、私たちの仕事ではない」
館長は、首を横に振った。
「典礼院は、典範の記録を預かる場所だ。筆頭評議員が印の押された紙を持ってくれば、図書館はそれに従う。四十年、そうしてきた。……今朝、橋の告示の話を聞くまでは、何を切ったのか分かっていなかった」
「命令書は」
「私の机の、鍵のかかる引き出しにある」
館長は、組んだ手に目を落とした。
「燃やせと言われた。燃やせなかった。紙を守る者は、紙を捨てられない。……だが、出せば、この図書館は典礼院に逆らったことになる。予算も、人も、典礼院が決めている。ヨハンとミアの給金もだ」
「審議は、二十九日後です」
「分かっている」
館長は立ち上がり、戸口まで歩いて、振り返った。
「お前は、あの頁を読んだことがあるな」
「何度も」
「そうだろうと思っていた。お前はあの帳面を出すたびに、秋のところで手が止まっていたからな」
館長は、少しだけ笑った。
笑った顔を見るのは、久しぶりだった。
「審議の日までに、決める。それまでは、あの子にも言わないでくれ」
外套の裾を揺らして、館長は暗い閲覧室へ出ていった。
足音が遠ざかる途中で、一度だけ止まった。
「紙を守る者は、紙より先に死ぬ。……私はまだ、死んでいないのにな」




