第12話 北からの手紙
翌朝、レオン様は編纂室の戸口で立ち止まった。
目の下に、薄く影がある。
外套の肩に、糊の匂いがかすかに残っていた。
あのあと、この人は眠っていないのだと思う。
「誰が綴じたのか、分かりました」
ギルベルト様が、拡大鏡を置いた。
私は、ペンを持ったまま顔を上げる。
「ただ、その人の名前は、審議の日まで言えません。昨夜、そう約束をしました」
レオン様は、それ以上何も言わなかった。
言い訳をしない人だと、私はもう知っている。
知りたくないと言えば、嘘になる。
けれど、この人が約束をしたと言うのなら、その約束はきっと、誰かを守るためのものだ。
「分かりました。待ちます」
「……訊かないのですか」
「約束を破らない人の約束なら、待てます。私たちは、そういう条文の番をしているのでしょう」
レオン様は、少しだけ目を見開いた。
それから眼鏡を押し上げて、「ありがとうございます」と小さく言った。
ギルベルト様が、わざとらしく咳払いをした。
「わしの前で、そういう顔をするでない。目が霞んどっても、それくらいは見える」
レオン様は、赤い革の裁可録を閉架へ戻しに行った。
扉が閉まってから、私は自分の右手を見た。
昨夜、閉架の階段で、あの人の手を取った。
長い指と、紙の縁で切った小さな傷。
帰りの馬車の中でも、朝になっても、その温かさがまだ手のひらに残っている。
審議まで、あと二十八日。
私は手を握って、机の上の手紙の山に向き直った。
◇
昼過ぎ、北の街道を回ってきた郵便の袋が、図書館に届いた。
グレイ砦から王都までは、馬で七日。
手紙は八日かかったと、封の日付が教えてくれる。
宛名は二通とも、編纂室のセシリア様。
一通は、ぶ厚い。
大きな、一文字ずつ丁寧に書いた字。
もう一通は薄くて、字が斜めに走っている。
私は、壁に貼ったばかりの地図の前に立った。
古書市で買った、北の街道の地図だ。
王都から北へ、川を二つ越えて、山の手前で道が細くなる。
その先に、小さな四角い印がある。
グレイ砦。
あの二人は今、ここにいる。
厚いほうの封を切った。
『セシリア様。お元気ですか。わたしは元気です』
フローラ様の字は、一行ごとに少しずつ右へ上がっていく。
読んでいると、あの方の声がそのまま聞こえてくるようだった。
砦の暮らしのこと。
兵隊さんのご家族の子どもたちに、文字を教え始めたこと。
石板が足りないので、雪かき用の板に炭で書いていること。
殿下の薪割りが、最初の日は一本も割れなかったのに、今は十本に一本は割れること。
『殿下はとても悔しがって、毎朝、誰よりも早く起きて練習しています。すごいです』
思わず、口元がゆるんだ。
十年、私が一度も見たことのない殿下が、手紙の中にいた。
けれど、二枚目で指が止まった。
『それから、王都から使者の方がいらっしゃいました。ドレクセル公爵様のお使いだそうです』
使者は、殿下に一枚の書状を見せたという。
弟君の縁談の推挙状。
伯父上が良いお相手を見つけた、兄として一筆添えてやってほしい、と。
『殿下はすぐに署名なさいました。兄として当然だとおっしゃって』
その下に、少しだけ字の乱れた行が続く。
『使者の方は、わたしにも紙を一枚渡しました。セシリア様が、夜会の前から殿下を陥れるつもりだったと、見たとおりに書けと言うのです。わたしは書きませんでした。子どもたちに、字は本当のことを書くためにあると教えているので、嘘の字は書けません』
私は、便箋をそっと机に置いた。
見たとおりに、ではない。
閣下の望むとおりに、だ。
審議に出すための紙だと、すぐに分かった。
閣下は、北の砦にまで手を伸ばしている。
そして、フローラ様はそれを断った。
男爵領の雪かきと同じ、真っ直ぐな手つきで。
最後の行は、元の字に戻っていた。
『セシリア様が読み上げてくださった決まりのおかげで、わたしは殿下と一緒にいられます。だから、字で嘘はつきません。お体に気をつけて』
◇
薄いほうは、殿下だった。
『セシリア。薪割りは剣術より難しい。伯父上の使者が来たので、ユリウスの縁談の推挙状を書いてやった。弟の縁談だ、兄として当然のことだ。フローラが何か書いていたら、それは言葉の綾だ』
それで、全部だった。
殿下から手紙をもらうのは、十年で二度目だ。
一度目は十歳の冬で、「来週行く」の一行だけだった。
その「来週」は、とうとう来なかった。
二度目の手紙には、薪割りのことが書いてある。
剣術より難しい、と。
殿下が何かを難しいと認めるのを、私は初めて読んだ。
フローラ様の一枚と並べると、殿下の字はずいぶん小さく見える。
それでも、砦の机に向かって、この四行を書いたのだ。
インクの染みが一つ、署名の横に落ちていた。
私は、思わず笑ってしまった。
笑いながら、もう一度「推挙状」の三文字を指でなぞる。
ギルベルト様が、窓際の机から顔を上げた。
「推挙状、とな」
「第二王子殿下の縁談です。ドレクセル公爵閣下が、お相手を見つけたと」
「ユリウス殿下は、十三じゃろう。婚約には早すぎる。……いや、早すぎるからこそ、か」
ギルベルト様は、拡大鏡の柄で机を叩いた。
私は、書棚から典範の写しを引き出して、頁を繰った。
第十二条。王族の婚約は、国王の裁可で成る。
その手前に、あまり読まれない短い条文がある。
第三十条。
王族の婚約は、年長の王族の推挙を要する。
陛下は、審議に口を出さないと決めていらっしゃる。
縁談の裁可を渋れば、閣下は「王は私情で動く」と言い立てるだろう。
推挙状さえ揃えば、その縁談は、止める手立てがほとんどない。
アルベルト殿下の継承権が戻れば、閣下は次の王の伯父。
戻らなくても、ユリウス殿下の妃を自分の側から出せば、閣下は次の王の妃の縁者。
どちらに転んでも、閣下は負けない。
その時、編纂室の扉が叩かれた。
図書館の小間使いの少年が、息を切らして顔を出す。
その後ろに、背の低い、金色の髪の少年が立っていた。
上着の襟に、王家の紋章の小さな刺繍がある。
「典範編纂室は、ここで合っていますか」
声変わりの途中の、少しかすれた声だった。
少年は私の顔を見て、それから背筋を伸ばした。
「僕はユリウス。編纂官補佐のセシリアは、あなたですね。……僕の婚約を、止めてほしいのです」




