第13話 第三十条
供の者は、閲覧室の入口に一人残してきたという。
王宮から図書館までは、馬車で四半刻。
第二王子が一人で編纂室の扉を叩くなど、本来ならあり得ないことだ。
それだけ、誰にも聞かれたくない話なのだろう。
編纂室に、椅子が一つ足りなかった。
ギルベルト様が自分の椅子を譲ろうとすると、ユリウス殿下は首を横に振った。
窓際の、写本を積んだ木箱に腰を下ろす。
膝をそろえ、両手をその上に置いた。
十三歳。
夜会の夜、大広間の隅で陛下の隣に立っていた少年だ。
あのとき殿下は、兄君が北へ送られるのを、瞬きもせずに見ていた。
近くで見ると、アルベルト殿下とは目の形が違う。
兄君の目は、いつも何かを欲しがっていた。
この方の目は、何かを量っている。
「伯父上が、縁談を持ってきました。相手は、伯父上の奥方の姪です。ローゼン伯爵家のマルガレーテ殿。十五歳」
ユリウス殿下は、用意してきた言葉を一つずつ置くように話した。
ローゼン伯爵家のマルガレーテ様なら、私も知っている。
王宮の茶会で、いつも部屋の隅で刺繍をしていた方だ。
話しかけると、針を持ったまま真っ赤になって、「はい」としか言わない。
その方の伯母君が、ドレクセル公爵夫人。
「兄上の推挙状は、もう伯父上の手元にあります。第三十条の推挙が揃ったから、あとは父上の裁可だけだと」
「陛下は、何と」
「何も。父上は今、何にも口を出さないと決めていらっしゃるので」
陛下の私信の一行が、胸によみがえった。
私は口を出さぬ。
あの決意は、第百条のためだけのものではなかったのだ。
口を出さない王は、息子の縁談にも口を出せない。
「マルガレーテ殿が、お嫌いなのですか」
「嫌いかどうかも分かりません。一度しか会っていないので。あの人も、ずっと下を向いていました」
殿下は、膝の上で指を組み替えた。
「僕が嫌なのは、僕の婚約が、僕の知らないところで決まることです。兄上の婚約も、そうやって決まったと聞きました」
私は、息を止めた。
八歳の私と、九歳のアルベルト殿下の婚約。
決めたのは、両家の大人たちだった。
私はその日、新しいドレスを着せられて、知らない大人に何度もお辞儀をした。
殿下は退屈そうに、窓の外ばかり見ていた。
あの婚約が十年でどうなったかを、この方は大広間で見ていたのだ。
この方は、兄君と同じ道を歩きたくないのだと思う。
それは、兄君を憎んでいるからではない。
兄君がどれほど長く、望まない場所に立たされていたかを、知っているからだ。
私は少し迷ってから、机の上の薄い便箋を差し出した。
昼過ぎに届いたばかりの、アルベルト殿下の四行だ。
ユリウス殿下は、それを両手で受け取った。
読み終えても、しばらく目を離さない。
薪割りは剣術より難しい、の一行を、指の先でなぞっている。
「兄上が、難しいと書いている」
「私も、初めて読みました」
「……推挙状のことは、一行だけなんですね。兄上らしい」
殿下は、笑おうとして、うまく笑えなかったようだった。
便箋を丁寧に畳んで、私に返す。
その手つきが、驚くほど兄君に似ていなかった。
◇
「お嬢さん、ちょっと来い」
ギルベルト様が、書棚の陰から私を呼んだ。
殿下に聞こえないよう、声を落とす。
「分かっとるじゃろうな。閣下の縁談を、閣下と争っとるお嬢さんが潰せば、審議で閣下はこう言う。ほれ見ろ、あの娘は私怨で動く、とな」
分かっていた。
分かっていたから、さっきから胸の奥が重い。
第百条は私怨で書かれた。
申し立ての写しには、そう書いてある。
ここで閣下の縁談に手を出せば、それを自分で証明するようなものだ。
断るのが賢い。
王子妃教育の十年が、そう囁く。
角の立たない言葉で、丁寧にお引き取りいただく方法なら、いくらでも知っている。
けれど。
私は、机の上の手紙の山を見た。
典範を家訓にした家から届いた、読み方を問う手紙。
夜会のあと、この部屋に集まってきた、誰かの困りごと。
「第八十条は、典範に倣った家が編纂官に読み方を問える、という条文です」
「そうじゃ」
「王家は、典範を家訓にしているいちばん古い家です。王家の方が読み方を問うなら、答えるのが編纂室の仕事でしょう」
ギルベルト様は、しばらく私の顔を見ていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「誰が問うても、同じように答える。それができるなら、止めはせん」
「できます。……できるように、します」
◇
木箱の前に戻ると、ユリウス殿下は典範の写しを膝に広げていた。
第三十条の頁だった。
「殿下。先に申し上げておきます。私は、殿下の婚約を止めることはできません」
殿下の指が、頁の上で止まった。
「典範は、誰かの望みを叶えるための道具ではありません。私にできるのは、この条文が何を求めているかを、正しく読むことだけです。読んだ結果、推挙が整っていれば、縁談は進みます」
「……整っていなければ」
「そのときは、整っていない、と申し上げます。閣下にも、陛下にも、同じように」
殿下は、じっと私を見上げた。
量る目が、私の顔の上を行き来する。
やがて、その目が少しだけ和らいだ。
「兄上のときも、そうやって読んだのですね」
「はい」
「先生みたいだ」
殿下は、ぽつりと言った。
それから、少し照れたように言い直した。
「セシリア先生。第三十条の、年長の王族というのは、誰のことですか」
「それを、確かめます。この条文には、由来があるはずです。明日、閲覧室の古い写しを当たります」
殿下は頷いて、典範の写しを丁寧に閉じた。
写しを胸に抱えたまま、少しのあいだ窓の外を見ている。
中庭の木の向こうに、王宮の塔の先が小さく覗いていた。
あの塔の下で、この方は十三年、兄君の影の中にいた。
誰も、この方に婚約のことを尋ねなかったのだろう。
殿下は木箱から立ち上がり、扉の前で振り返る。
「一つ、言い忘れていました。伯父上は、婚約の発表を、審議の翌日にすると言っていました」
扉が閉まってから、私は机の上の申し立ての写しに目をやった。
審議の翌日。
閣下は、負けたときのことを少しも考えていない。




