第25話 誓いの言葉
婚礼の朝、王都に初雪が降った。
窓を開けると、屋根という屋根が薄く白くなっている。
北の砦は、もうとっくに雪の中だろう。
あの道は、春まで閉ざされる。
地図の紙の色のドレスに袖を通すと、袖口で小さな本の列がこちらを向いた。
一冊ずつ、ちゃんと頁が開いている。
針を持ったまま顔を上げなかったあの方は、こんなに細かい仕事をする人だったのだ。
父の馬車で図書館へ向かった。
父は、向かいの席で腕を組んで、窓の外の雪を見ていた。
十年、この人と馬車に乗るときは、いつも王宮へ向かっていた。
王子妃教育の先生方に会いに行くか、殿下の来ない茶会に出るかの、どちらかだった。
「……セシリア」
図書館の門が見えてきたころ、父が雪を見たまま言った。
「お前の声は、母親に似ている。読み上げるとき、よく通る」
亡くなった母の話を、父の口から聞くのは何年ぶりだろう。
私は、返事をする代わりに、膝の上で手を組んだ。
袖口の小さな本の列が、指先に触れた。
門の上の灯りが、雪の朝なのに、灯っていた。
◇
閲覧室の机は、壁際に寄せられていた。
南の窓際、三番目の机だけが、元の場所に残してある。
机の端には、角の擦り切れた辞書が、いつものように置いてあった。
客は、多くなかった。
陛下は、閲覧室のいちばん後ろの、ふつうの椅子に座っていらした。
その隣にユリウス殿下。
殿下の二つ後ろの席に、マルガレーテ様が、膝の上で手を組んでいる。
イレーネ様と、領地から戻られたグラーツ公爵。
日焼けしたフランツ様は、なぜか蜂蜜のパンの包みを抱えていた。
館長と、修繕室のヨハンとミア。
エマ様は、新しい詩の載った雑誌を、こっそり私の父に渡そうとして断られていた。
立会人の席には、ギルベルト様が杖を立てて座っている。
レオンは、書見台の手前に立っていた。
黒い外套ではなく、婚約の朝と同じ紺の上着だった。
私を見て、眼鏡を押し上げようとして、また指が空を切った。
私は、書見台の前に立った。
典範の原本は、第六十四条の頁が開いてある。
その脇に、封をした紙が二通。
一通は私の字で、もう一通は、レオンの字で宛名が書いてある。
息を吸った。
夜会の夜、大広間で第九十九条を読み上げたときと、同じように。
「『婚姻は、両人の――』」
そこで、声が止まった。
稽古では、最後の夜に一度もつかえなかったのに。
閲覧室が、しんと静まり返る。
雪の音まで聞こえそうな静けさだった。
顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。
何も言わない。
急かさない。
ただ、待っている。
私は、もう一度、息を吸った。
「『婚姻は、両人の誓ひを、典範の編纂官これを読み上げ、立会人これを聞きて成る』」
一度つかえた分だけ、声はかえって落ち着いていた。
最初の封を切る。
私の誓いだ。
稽古を始める前の晩に、ランプの下で、一度も線を引かずに書いた。
「『私は、分からない字があったら、あなたに訊きます。この字は、これで合っていますか、と。一生、訊きます』」
十二の秋、閉館後の閲覧室で、初めて自分から隣の机へ行って訊いた言葉だ。
レオンの肩が、ほんの少しだけ動いた。
「『そして、あなたが分からない字を差し出したら、私も余白に、読み方を書きます。あなたが答えを探しているあいだは、私も急かしません』」
読み終えて、紙を書見台に置いた。
二通目に、指をかける。
この封を切れば、レオンの誓いを、レオンより先に、皆の前で声に出すことになる。
私は、まだ一行も知らない。
封蝋を割る音が、思ったより大きく響いた。
「『私は、閉館後の閲覧室にランプを二つ灯しておくのが好きだと、あなたに言いました』」
夏の初めの古書市で聞いた、三つのうちの一つだ。
「『本当は、二つ目のランプは、いつも南の窓際の、三番目の机のためのものでした。誰も座っていない夜も、あなたが来るかもしれない夜も』」
声が、揺れた。
揺れたまま、読んだ。
「『これからは、二つとも、二人のために灯します。門の灯りは、あなたの馬車を見送るためではなく、二人で帰るときに、二人で消します』」
それで、終わりだった。
この人らしい、余白の多い誓いだった。
紙を持つ手が、震えている。
十年、私は馬車の窓から、門の灯りを振り返ったことがなかった。
初めて振り返ったのは、百日の四日目の夜だ。
もっと早く振り返っていたら、もっと早く気づいたのかもしれない。
ギルベルト様が、杖をついて立ち上がった。
「立会人、聞いた」
しゃがれた声が、閲覧室に響く。
「わしの耳は、目ほど悪うない。一字も聞き違えとらん。……成った」
いちばん後ろの席で、陛下が小さく頷くのが見えた。
審議に口を出さなかったときと同じように、陛下は何もおっしゃらなかった。
口を出さないことで、この婚姻を、私たちのものにしてくださったのだ。
レオンが、書見台のこちら側へ回ってきた。
眼鏡を外して、上着の胸にしまう。
眼鏡のないこの人の顔を、私はもう何度か見ている。
それでも、まだ慣れない。
「……先に読まれるのは、思っていたより恥ずかしいものですね」
「習わしですから」
「誰が決めたんでしょう」
「百五十年前の編纂官です。由来を、お読みしましょうか」
「今日は、遠慮しておきます」
レオンが笑った。
つられて、閲覧室のあちこちで小さな笑いが起きた。
フランツ様が「なんだ、蜂蜜のパンの話は出ないのか」と言って、イレーネ様に袖を引かれていた。
◇
その夜、客がみな帰ったあと、私とレオンは図書館の門の下に立った。
雪は、まだ降り続いている。
門の上の灯りが、白い粒を一つずつ照らしていた。
十年、この灯りは、私の馬車が角を曲がるまで消えなかった。
灯していた人は、いつも門の下に一人で立っていた。
今夜は、二人で見上げている。
レオンが、灯りの覆いに手を伸ばした。
私も、その手に自分の手を重ねた。
門の灯りを消したのは、二人だった。




