第26話 一年後
一年後。
私は王立図書館の奥にある典範編纂室で、新しい写本の校正をしている。
典範の編纂官に女性が就くのは、建国以来初めてだという。
辞令をいただいたのは、審議の日の夕方だった。
南向きの小さな部屋には、古い写本と辞書がぎっしり並んでいる。
窓際の机は、閲覧室の南の窓際、三番目の机と同じ角度に置いてある。
そこに座ると、十年分の午後の光を思い出す。
壁には、北の街道の地図が二枚。
百年の間を置いて刷られた同じ道に、今は三枚目の紙が足されている。
トビたちの名前を写した紙だ。
ギルベルト様は、婚礼のあと、本当に引退なさった。
図書館の裏の、館長の家の隣に部屋を借りて、ときどき杖で編纂室の窓を叩きに来る。
私が読み違えたからではなく、たいていは、館長と碁を打つ相手がいないときだ。
今朝も、窓が二度鳴った。
開けると、ギルベルト様が杖を下ろして、私の机の校正刷りを顎で示した。
「三行目。『問ひに』の三文字が抜けとる。百五十年前の写字生と、同じ落とし方じゃ」
拡大鏡なしで、窓の外から。
見えていないはずの字を、この方は覚えているのだ。
直して顔を上げると、ギルベルト様はもう、館長の家のほうへ歩き出していた。
空いた窓際の大きな机には、今はレオンの修繕の道具が並んでいる。
隣の机では、今日もレオンが写本の修繕をしている。
分からない字があって頁を差し出すと、黙って余白に読み方を書いてくれる。
あの頃と、何も変わらない。
◇
あの夜会のあと、王宮ではちょっとした変化が起きた。
若い王族や貴族の子弟が、こぞって典範を読み始めたのだ。
第九十九条を知らずに恥をかくのはごめんだ、というのが、もっぱらの理由らしい。
審議の話が広まってからは、「第七十二条も」と付け加える人が増えた。
閲覧室は連日満席で、レオンは「写本の修繕が追いつかない」と嬉しそうに嘆いている。
相談の手紙は、今では週に三十通を超える。
一件ずつ、条文を引いて、由来を添えて、返事を書く。
第二王子のユリウス殿下も、そのお一人だ。
十四歳になった殿下は、毎週欠かさず編纂室に通ってきて、条文の由来を一つずつ尋ねていく。
上着の隠しには、角に小さな本の刺繍のあるハンカチが、いつも入っている。
先日などは、第九十九条の頁を開いて、真剣な顔でこうおっしゃった。
「セシリア先生。僕は、真実の愛を見つけても、三年は黙っていることにします」
私は、三代前の編纂官の覚え書きを思い出して、ただ「はい」とだけ答えた。
見つけても、とおっしゃったのか。
見つけたら、とおっしゃったのか。
どちらだったのかは、訊かないでおいた。
その話をお伝えしたら、陛下は声を上げてお笑いになった。
陛下が声を上げて笑うのを、私は初めて聞いた。
◇
「セシリア。北から手紙が届いていますよ」
夫になったレオンが、封筒を二通持って入ってくる。
グレイ砦からの便りは、雪解けを待たなければ届かない。
秋の半ばの便から、半年ぶりの手紙だった。
一通目は、フローラ様からだった。
『セシリア様、お元気ですか。グレイ砦はとてもいいところです。いただいた石板で、子どもたちはみんな自分の名前が書けるようになりました。先生と呼ばれるのにも、やっと慣れました。アルベルト様は毎朝、薪を割っています。最初は一本も割れませんでしたが、今は三十本割れます。すごいです』
思わず、笑ってしまう。
フローラ様はきっと本当に、殿下のことが好きなのだ。
封筒の底には、もう一枚、紙が入っていた。
石板の字を、そのまま紙に写したような大きな字で、『せしりあさま せきばん ありがとう』。
いちばん下のトビの名前は、もう紙からはみ出していなかった。
フローラ様の手紙には、続きがあった。
『冬のあいだ、アルベルト様は夜になると、塔の書庫にこもっていました。何をしているのか訊いても、教えてくれません』
書庫は、塔の中でいちばん風の入らない部屋なのかもしれない。
殿下は、昔から寒いのがお嫌いだった。
二通目は、殿下からだった。
便箋いっぱいに、震える字が並んでいる。
『セシリア、頼む。父上に口添えしてくれ。ここは寒い。薪割りで手が割れた。フローラは毎日楽しそうだが、僕はもう限界だ。婚約破棄は間違いだった。あの宣言は、言葉の綾だったんだ』
言葉の綾。
七年前の秋と、同じ言葉。
この人は、一年経っても、この言葉だけは手放さない。
けれど、最後の「綾」の一字だけが、古語の形で書いてあった。
秋の便の「祝」とは違って、横棒は一本も欠けていない。
フローラ様は、ずいぶん教えるのが上手になったらしい。
私は便箋を丁寧に畳み、机の上の典範を開いた。
返事の便箋に、二つの条文を書き写す。
『第九十九条。三年を経てなお愛が変わらぬときに限り、国王はその婚姻を許す』
『第百条。一度宣言した言葉を、己の都合で翻した王族は、言葉の重みを知らぬ者とみなす』
その下に、一行だけ添えた。
『あと二年です。フローラ様を、どうか大切に』
「それだけでいいのですか?」
手元を覗き込んだレオンが、面白そうに言う。
「ええ。殿下は最後まで、ご自分では典範をお読みにならないでしょうから」
レオンは、すぐには答えなかった。
机の端の殿下の便箋を、なぜかしばらく眺めている。
それから眼鏡を押し上げて、「……そうかもしれませんね」とだけ言った。
何か知っている顔だ、と思った。
けれど、この人が黙っているときは、たいてい誰かのために黙っている。
いつか話してくれるまで、急かさないと、私は誓ったのだ。
私はペンを置き、封筒に蝋を垂らした。
「真実の愛を見つけたとおっしゃったのですもの。何度でも、読み上げて差し上げますわ」
↓第3章の番外編「綾の一字」(アルベルト殿下視点。砦の書庫で過ごした冬)
https://note.com/wise_turtle184/n/ncd4894138ffe




