第24話 婚姻の条文
秋の半ばに、北から雪の前の最後の便が届いた。
フローラ様の手紙は、今度も厚かった。
子どもたちが石板で書いた名前を、一人ずつ紙に写して同封してくれている。
トビの字は、右へ大きく傾いていて、最後の一画が紙からはみ出していた。
殿下の手紙は、今度も薄かった。
『婚約していたなら、砦で言え。フローラに聞いた。フローラがうるさいので、祝ってやる。婚礼には行けない。三年は砦だ』
それで、全部だった。
言葉の綾、とは書いていなかった。
ただ、「祝」の一字だけが、古語の形で書いてあった。
それも、横棒が一本足りない。
誰かの字を見て、見よう見まねで写したような形だった。
フローラ様に教わったのだろうか。
私は首を傾げながら、その手紙をレオンに見せた。
レオンは一字を長いあいだ見て、黙って眼鏡を押し上げただけだった。
◇
婚礼が冬の初めと決まってから、王宮では小さな騒ぎが起きていた。
この国の婚礼では、典範の編纂官が婚姻の条文を読み上げる。
第六十四条。
『婚姻は、両人の誓ひを、典範の編纂官これを読み上げ、立会人これを聞きて成る』
誓いの言葉は、二人がそれぞれ書いて封をし、婚礼の場で編纂官が封を切って読み上げる。
それまでは、相手の誓いを読んではならない。
百五十年、そういう習わしになっている。
編纂官は、二人いる。
一人は目の弱ったギルベルト様で、もう一人は花嫁本人だ。
花嫁が自分の婚姻の条文を読み上げるなど、建国以来、聞いたことがない。
はしたない、と言う方がいた。
前例がない、と言う方もいた。
前の筆頭評議員の派の方々は、ここぞとばかりに眉をひそめた。
ギルベルト様は、その話を聞くと拡大鏡を机に叩きつけた。
「典範のどこに、編纂官が花嫁であってはならんと書いてある。書いてないことを禁じるのは、典範を読まん者のすることじゃ」
その一言が、どういう道を通ってか陛下のお耳に届いたらしい。
翌週、陛下から短い私信が来た。
『読みなさい。それと、場所は図書館にしなさい。典範の原本を、わざわざ王宮へ運ぶのは手間だ』
レオンは私信を読んで、珍しく声を立てて笑った。
閲覧室で婚礼を挙げた者は、図書館の三百年の記録を引いても一人もいないそうだ。
同じ私信の終わりに、もう一行あった。
ギルベルト・ハースの引退の願いを、婚礼のあとに受ける、と。
ギルベルト様は、その行を拡大鏡で三度読んだ。
それから、何でもない顔で私信を畳んだ。
「二年と半年前に出した願いじゃ。やっと届いたか」
「……寂しくなります」
「たわけ。図書館の裏に部屋を借りる。館長の家の隣じゃ。お前さんが読み違えたら、杖で窓を叩きに来る」
ギルベルト様はそう言って、窓のほうを向いた。
あの方が窓を向くのは、顔を見られたくないときだと、私はもう知っている。
◇
秋の終わりの安息日、イレーネ様に連れられて仕立て屋へ行った。
十年、私のドレスは王子妃の色で選ばれてきた。
淡い薔薇色、控えめな水色、王家の紋章に合う金の縁取り。
どれも似合うと言われたけれど、一度も自分で選んだことはない。
「何色がいいの」
イレーネ様は、生地の見本を卓に広げて、一言だけ訊いた。
私は、見本の山を長いあいだ眺めた。
それから、いちばん端の一枚を指した。
古い羊皮紙のような、少し黄みがかった白だ。
「……地図の、紙の色です」
イレーネ様は、ほんの少しだけ目を細めた。
それが、あの方の笑い方だと、もう私は知っている。
「八つのあなたに礼法の最初の講義をしたとき、わたくしは、お辞儀の次に、王子妃の色の選び方を教えました」
イレーネ様は、地図の紙の色の見本を、私の手の上に載せた。
「今日で、取り消します。……袖口には、刺繍を入れましょう。頼む人は、もう決めてあります」
数日後、刺繍の図案が届いた。
袖口をぐるりと巡る、小さな開いた本の列。
添えられた紙には、細い字で『ローゼン家 マルガレーテ』とだけ書いてあった。
ユリウス殿下にそれを伝えると、殿下は「そうですか」と言って、耳を赤くした。
それ以上は、何も言わなかった。
三年は、まだ始まったばかりだ。
◇
婚礼の十日前から、閉館後の閲覧室で、読み上げの稽古をした。
書見台は、閲覧室の正面に据えてある。
その上に、典範の原本。
ランプは二つ灯して、一つは書見台に、一つはレオンの修繕の机に置く。
レオンは、自分の修繕の机で写本を直しながら聞いている。
いちばん近い席で聞きます、と誓詞に書いた人だ。
稽古のあいだ、紙を直す音は一度も止まらなかった。
第六十四条は、短い。
夜会の大広間で読み上げた第九十九条の、半分もない。
それなのに、私は毎晩、同じところでつかえた。
「『婚姻は、両人の――』」
両人。
読み上げる私が、その両人の片方なのだ。
六年前、この閲覧室で、私は泣きながら条文を書いた。
あの夜の私は、誰かに守ってほしくて、言葉に重みを置く決まりを書いた。
今、同じ部屋で読もうとしているのは、私が自分で選んだ人と、自分で結ぶための条文だ。
声に出すたびに、条文が少しずつ、私のほうを向く。
十年、典範は誰かに向けて読むものだった。
殿下に、評議員に、相談に来た家の人たちに。
自分に向けて読んだことは、一度もない。
「つかえても、いいと思います」
十日目の夜、レオンが手を止めて言った。
「つかえたら、私が待ちます。あなたが答えを探しているあいだは、急かさないと書きましたので」
「誓詞に書いたことを、そのまま言うのはずるいです」
「書いたことしか言えないのが、私の取り柄です」
私は、書見台に手をついて笑った。
笑ったら、喉の奥のつかえが、少しだけほどけた。
もう一度、頭から読む。
今度は、一度もつかえなかった。
読み終えると、修繕の机で、紙を直す音がほんの一瞬だけ止まった。
閲覧室の窓の外は、もう真っ暗だった。
硝子に、ランプが二つ映っている。
書見台の脇には、封をした紙が二通置いてある。
一通は、私が書いた誓い。
もう一通は、まだ読んでいない、レオンの誓いだ。
明日、私は自分の婚姻の条文を、自分の声で読み上げる。
そして、あの人の誓いを、あの人より先に、皆の前で声に出すのだ。




