第23話 ユリウスの第九十九条
砦を発つ朝、殿下は門のところまで出てきた。
腕を組んで、何も言わなかった。
荷馬車が動き出してから、一度だけ、「道中、気をつけろ」とだけ聞こえた。
十年で初めて、殿下が私の帰り道の心配をした。
フローラ様は、炭で黒い手を大きく振っていた。
トビと子どもたちが、石板を頭の上に掲げて、石垣の上を走って追いかけてくる。
石板には、それぞれの名前が書いてあった。
レオンは、塔から少し遅れて出てきた。
荷台に鞄を積んで、何事もなかったように私の向かいに座る。
どこにいたのかと訊くと、書庫に忘れ物を、とだけ言った。
王都に着いたのは、それから七日目の夕方だった。
翌朝、編纂室の壁に、二枚の地図を並べて貼った。
古書市で買った新しい刷りと、誕生日にもらった古い刷り。
同じ道が、百年の間を置いて、二本並んでいる。
古い刷りの余白の書き込みは、半分が本当だった。
宿のパンは、確かにうまかった。
塔の上の夕焼けは、見そびれたので、まだ分からない。
ギルベルト様は、二枚の地図を拡大鏡で一通り眺めて、「北は寒かったか」とだけ訊いた。
寒かったです、と答えると、満足そうに頷いて自分の机に戻っていった。
◇
帰ってから四日後の午後、ユリウス殿下が編纂室に来た。
いつものように供を閲覧室の入口に残し、一人で扉を叩く。
窓際の、写本を積んだ木箱に腰を下ろして、膝をそろえる。
背が、夏の初めより少しだけ伸びていた。
「父上から、お返事をいただきました」
殿下は、言葉を一つずつ置くように言った。
「一昨日、書斎に呼ばれて。夏のあいだ、ずっと何も言われなかったので、もう忘れておいでなのだと思っていました」
「陛下は、何と」
「『受け取った。お前が自分で問い、相手が自分で答えたら、来なさい。そのときは、推挙は要らぬ』と」
殿下は、そこで少しだけ口元をゆるめた。
「それから、『縁談が消えるまで返事をしなかったのは、お前の手紙を、縁談を断るための道具にしたくなかったからだ』と」
私は、窓際の机のギルベルト様と目を見交わした。
陛下は、ユリウス殿下の手紙にも、第百条と同じ守り方をなさったのだ。
口を出さずに待つことで、その言葉を、言った本人のものにしておく。
ローゼン家の縁談は、審議のあと、何の知らせもないまま立ち消えになっていた。
推挙状が推挙にならない以上、整える手立てがないのだ。
マルガレーテ様には、何の咎もない。
「それで、先生。もう一つ、ご報告があります」
殿下は、膝の上で指を組み替えた。
「先週、王宮の茶会で、マルガレーテ殿に会いました。……お詫びに行ったんです。僕の家の者の都合で、あの人の名前が、あちこちで噂になったので」
「お詫びを」
「はい。あの人は、また部屋の隅で刺繍をしていました」
その姿は、私にも目に浮かぶ。
王子妃教育のころ、茶会で何度か隣に座ったことがある。
針を持った指はいつも動いているのに、顔は一度も上がらなかった。
殿下の声が、ほんの少しだけ早くなった。
「僕が謝ると、あの人は、いつものように『はい』と言いました。それで終わりだと思ったら、針を置いて、続けたんです」
「何と」
「『わたくしも、問われずに決まるのは、嫌でした』と」
殿下は、そこで言葉を切った。
膝の上の指が、組んだままじっとしている。
「それから、刺繍を見せてくれました。ハンカチの角に、小さな本が縫ってあって。僕が典範を読んでいると聞いたから、と」
ギルベルト様が、拡大鏡を置いて咳払いをした。
「殿下。耳が赤うございますぞ」
「……赤くありません」
赤かった。
金色の髪のあいだから覗く耳の先が、見事なほど。
私は、笑わないように唇を引き結んだ。
十三歳の殿下は、自分の耳の色に気づいているのかいないのか、まっすぐに私を見た。
「先生。第九十九条を、もう一度読ませてください。由来も」
◇
鍵付きの書庫から、薄い革表紙の帳面を出してきた。
三代前の編纂官が残した、覚え書きだ。
第三十条の由来を古い写しの余白に書き込んだのと、同じ字。
第九十九条が加えられたとき、この人は編纂室にいたのだ。
私も、まだ全部は読んでいなかった。
夜会の夜に読み上げたのは、条文と、表向きの由来だけだ。
三代前の国王陛下は、真実の愛を理由に、隣国の王女殿下との婚約を破棄なさった。
同盟が崩れ、北の国境で三年の戦が続いた。
ここまでは、王宮の誰もが知っている。
覚え書きは、その先を記していた。
『王、戦の三年を経て、なほ同じ人を想へり。ゆゑに婚姻を許さる。されど、北に還らぬ者、千を数ふ』
千。
宰相閣下のお祖父様も、その千の中の一人だったはずだ。
夜会の夜、人垣の中で目を閉じた閣下の顔を、私は思い出していた。
「……三年経っても、変わらなかったのですね」
殿下が、覚え書きの字を指でたどりながら言った。
「はい。あの王の愛は、本物だったのです。三年の戦のあいだ、一度も心変わりなさらなかった」
「なら、どうして、こんな条文が」
「本物だったからです」
私は、覚え書きの最後の行を指した。
「本物でも、言う時が早すぎた。三年待ってから口にしていれば、婚約は穏やかに解けて、戦は起きなかったかもしれない。……この条文は、愛を疑う条文ではありません。言葉を急がせない条文です」
殿下は、長いあいだ黙って覚え書きを見ていた。
窓の外で、図書館の鐘が鳴る。
ギルベルト様が、写本の頁を繰る音がする。
「宣言しなければ、第九十九条は、関係ないのですね」
「はい。典範は、口に出した言葉にしか、重みを置きません」
「三年経てば、僕は十六です」
殿下は、ぽつりと言った。
それから、自分が何を言ったのかに気づいたように、口を閉じた。
十六の殿下と、十八のマルガレーテ様。
私は、その計算を聞かなかったことにした。
この方が自分で問い、自分で答えるまで、編纂官が口を挟むことではない。
「……何でもありません。先生、今日はありがとうございました」
殿下は木箱から立ち上がり、扉の前で、一度だけ振り返った。
「また来週、来てもいいですか。由来の続きを」
「毎週でも」
足音が閲覧室を遠ざかっていく。
来たときより、少しだけ早い足音だった。
十三の私が閲覧室から帰るときも、たぶん、あんな足音をしていたのだろう。
足音が聞こえなくなると、ギルベルト様が鼻を鳴らした。
「あの殿下は、言わんじゃろうな。三年は」
「そう思われますか」
「わしは五十年、言うのが遅すぎて、家内に毎日叱られた。……ああいう顔は、見れば分かる」
ギルベルト様は、拡大鏡を写本の上に置いた。
それから、窓のほうを向いたまま、少し改まった声で言った。
「婚礼は、冬の初めと決まったそうじゃな」
「はい。昨日、両家で」
「婚礼では、編纂官が婚姻の条文を読み上げる。それが、この国の習わしじゃ」
ギルベルト様は、自分の目を指で示した。
「わしの目では、読み違える。蜂蜜のパンも、ペンと読んだ男じゃ。……お前さんの婚礼の条文は、お前さんが読め」




