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真実の愛を見つけたとおっしゃるので、王家の家訓を読み上げて差し上げました  作者: ま
第三章 読み上げる声

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第23話 ユリウスの第九十九条



 砦を発つ朝、殿下は門のところまで出てきた。


 腕を組んで、何も言わなかった。

 荷馬車が動き出してから、一度だけ、「道中、気をつけろ」とだけ聞こえた。

 十年で初めて、殿下が私の帰り道の心配をした。


 フローラ様は、炭で黒い手を大きく振っていた。

 トビと子どもたちが、石板を頭の上に掲げて、石垣の上を走って追いかけてくる。

 石板には、それぞれの名前が書いてあった。


 レオンは、塔から少し遅れて出てきた。

 荷台に鞄を積んで、何事もなかったように私の向かいに座る。

 どこにいたのかと訊くと、書庫に忘れ物を、とだけ言った。


 王都に着いたのは、それから七日目の夕方だった。


 翌朝、編纂室の壁に、二枚の地図を並べて貼った。

 古書市で買った新しい刷りと、誕生日にもらった古い刷り。

 同じ道が、百年の間を置いて、二本並んでいる。


 古い刷りの余白の書き込みは、半分が本当だった。

 宿のパンは、確かにうまかった。

 塔の上の夕焼けは、見そびれたので、まだ分からない。


 ギルベルト様は、二枚の地図を拡大鏡で一通り眺めて、「北は寒かったか」とだけ訊いた。

 寒かったです、と答えると、満足そうに頷いて自分の机に戻っていった。




◇




 帰ってから四日後の午後、ユリウス殿下が編纂室に来た。


 いつものように供を閲覧室の入口に残し、一人で扉を叩く。

 窓際の、写本を積んだ木箱に腰を下ろして、膝をそろえる。

 背が、夏の初めより少しだけ伸びていた。



「父上から、お返事をいただきました」



 殿下は、言葉を一つずつ置くように言った。



「一昨日、書斎に呼ばれて。夏のあいだ、ずっと何も言われなかったので、もう忘れておいでなのだと思っていました」


「陛下は、何と」


「『受け取った。お前が自分で問い、相手が自分で答えたら、来なさい。そのときは、推挙は要らぬ』と」



 殿下は、そこで少しだけ口元をゆるめた。



「それから、『縁談が消えるまで返事をしなかったのは、お前の手紙を、縁談を断るための道具にしたくなかったからだ』と」



 私は、窓際の机のギルベルト様と目を見交わした。

 陛下は、ユリウス殿下の手紙にも、第百条と同じ守り方をなさったのだ。

 口を出さずに待つことで、その言葉を、言った本人のものにしておく。


 ローゼン家の縁談は、審議のあと、何の知らせもないまま立ち消えになっていた。

 推挙状が推挙にならない以上、整える手立てがないのだ。

 マルガレーテ様には、何の咎もない。



「それで、先生。もう一つ、ご報告があります」



 殿下は、膝の上で指を組み替えた。



「先週、王宮の茶会で、マルガレーテ殿に会いました。……お詫びに行ったんです。僕の家の者の都合で、あの人の名前が、あちこちで噂になったので」


「お詫びを」


「はい。あの人は、また部屋の隅で刺繍をしていました」



 その姿は、私にも目に浮かぶ。

 王子妃教育のころ、茶会で何度か隣に座ったことがある。

 針を持った指はいつも動いているのに、顔は一度も上がらなかった。


 殿下の声が、ほんの少しだけ早くなった。



「僕が謝ると、あの人は、いつものように『はい』と言いました。それで終わりだと思ったら、針を置いて、続けたんです」


「何と」


「『わたくしも、問われずに決まるのは、嫌でした』と」



 殿下は、そこで言葉を切った。

 膝の上の指が、組んだままじっとしている。



「それから、刺繍を見せてくれました。ハンカチの角に、小さな本が縫ってあって。僕が典範を読んでいると聞いたから、と」



 ギルベルト様が、拡大鏡を置いて咳払いをした。



「殿下。耳が赤うございますぞ」


「……赤くありません」



 赤かった。

 金色の髪のあいだから覗く耳の先が、見事なほど。


 私は、笑わないように唇を引き結んだ。

 十三歳の殿下は、自分の耳の色に気づいているのかいないのか、まっすぐに私を見た。



「先生。第九十九条を、もう一度読ませてください。由来も」




◇




 鍵付きの書庫から、薄い革表紙の帳面を出してきた。


 三代前の編纂官が残した、覚え書きだ。

 第三十条の由来を古い写しの余白に書き込んだのと、同じ字。

 第九十九条が加えられたとき、この人は編纂室にいたのだ。


 私も、まだ全部は読んでいなかった。

 夜会の夜に読み上げたのは、条文と、表向きの由来だけだ。


 三代前の国王陛下は、真実の愛を理由に、隣国の王女殿下との婚約を破棄なさった。

 同盟が崩れ、北の国境で三年の戦が続いた。

 ここまでは、王宮の誰もが知っている。


 覚え書きは、その先を記していた。



『王、戦の三年を経て、なほ同じ人を想へり。ゆゑに婚姻を許さる。されど、北に還らぬ者、千を数ふ』



 千。

 宰相閣下のお祖父様も、その千の中の一人だったはずだ。

 夜会の夜、人垣の中で目を閉じた閣下の顔を、私は思い出していた。



「……三年経っても、変わらなかったのですね」



 殿下が、覚え書きの字を指でたどりながら言った。



「はい。あの王の愛は、本物だったのです。三年の戦のあいだ、一度も心変わりなさらなかった」


「なら、どうして、こんな条文が」


「本物だったからです」



 私は、覚え書きの最後の行を指した。



「本物でも、言う時が早すぎた。三年待ってから口にしていれば、婚約は穏やかに解けて、戦は起きなかったかもしれない。……この条文は、愛を疑う条文ではありません。言葉を急がせない条文です」



 殿下は、長いあいだ黙って覚え書きを見ていた。


 窓の外で、図書館の鐘が鳴る。

 ギルベルト様が、写本の頁を繰る音がする。



「宣言しなければ、第九十九条は、関係ないのですね」


「はい。典範は、口に出した言葉にしか、重みを置きません」


「三年経てば、僕は十六です」



 殿下は、ぽつりと言った。

 それから、自分が何を言ったのかに気づいたように、口を閉じた。


 十六の殿下と、十八のマルガレーテ様。

 私は、その計算を聞かなかったことにした。

 この方が自分で問い、自分で答えるまで、編纂官が口を挟むことではない。



「……何でもありません。先生、今日はありがとうございました」



 殿下は木箱から立ち上がり、扉の前で、一度だけ振り返った。



「また来週、来てもいいですか。由来の続きを」


「毎週でも」



 足音が閲覧室を遠ざかっていく。

 来たときより、少しだけ早い足音だった。

 十三の私が閲覧室から帰るときも、たぶん、あんな足音をしていたのだろう。


 足音が聞こえなくなると、ギルベルト様が鼻を鳴らした。



「あの殿下は、言わんじゃろうな。三年は」


「そう思われますか」


「わしは五十年、言うのが遅すぎて、家内に毎日叱られた。……ああいう顔は、見れば分かる」



 ギルベルト様は、拡大鏡を写本の上に置いた。

 それから、窓のほうを向いたまま、少し改まった声で言った。



「婚礼は、冬の初めと決まったそうじゃな」


「はい。昨日、両家で」


「婚礼では、編纂官が婚姻の条文を読み上げる。それが、この国の習わしじゃ」



 ギルベルト様は、自分の目を指で示した。



「わしの目では、読み違える。蜂蜜のパンも、ペンと読んだ男じゃ。……お前さんの婚礼の条文は、お前さんが読め」



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