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真実の愛を見つけたとおっしゃるので、王家の家訓を読み上げて差し上げました  作者: ま
第三章 読み上げる声

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第22話 砦の書庫



 あの子は、すぐには答えなかった。


 食堂の入口の柱のそばから、私はそれを見ていた。

 書状を持つ手は、震えていない。

 ただ、一度だけ、机の上の典範の写しに目を落とした。



「はい。六年前の、秋の十日目の夜に書きました」



 声は、審議の日と同じだった。

 議場の書見台の前で第百条を読み上げた、あの静かな声だ。



「殿下が、言葉の綾だとおっしゃった日の、夜です」



 殿下は、何も言わずに立ち上がった。

 椅子が石の床を擦って、嫌な音を立てた。

 そのまま食堂を出ていく背中を、フローラ嬢が目で追う。



「追わなくて、いいんです」



 フローラ嬢は、自分に言い聞かせるように言った。



「アルベルト様は、考えるとき、薪を割るんです。割れなくても、割るんです」



 その日の昼過ぎまで、中庭からは、乾いた音が途切れずに聞こえていた。


 昼の粥を運んでいくフローラ嬢と、塔の階段の下ですれ違った。

 盆の上の椀は二つ。

 一つは、もう冷めかけている。



「レオン様。……アルベルト様の伯父上から、夏の半ばにお手紙が来たんです」



 フローラ嬢は、盆を持ち直しながら言った。



「審議は延びた、すぐに迎えをやる、って。アルベルト様は、それから毎朝、南の道ばかり見ていました」


「迎えは、来ませんでしたね」


「はい。アルベルト様は、信じたいことを信じるんです。でも」



 中庭のほうから、また乾いた音がした。

 割れた音ではなかった。

 刃が木に噛んで、止まる音だ。



「割れない薪は、信じても割れないから。だから、薪割りは好きなんだと思います」



 フローラ嬢はそう言って、冷めかけた椀を持って中庭へ出ていった。

 この人は、私が思っていたよりずっと、ものをよく見ている。




◇




 陛下の書状には、副館長を伴え、とあった。

 理由は書かれていなかったが、私には察しがついた。

 砦の書庫には、古い写本が眠っている。


 塔の二階の廊下の突き当たりに、低い木の扉がある。

 身を屈めて入ると、王宮の書庫と同じ、古い紙の匂いがした。


 棚は三つ。

 兵の名簿、砦の日誌、百年前の街道の地図。

 北の湿気で、どれも背の革が浮いている。


 その棚の端に、布で包んだ四角い荷物が一つ置いてあった。

 結び目は、包まれたときのままだ。

 誰も、一度も解いていない。


 解かなくても、中身は分かった。


 殿下が十の年から、陛下は毎年の誕生日に、典範の写本を贈ってきた。

 王立図書館で写した写本は、すべて修繕室で綴じる。

 十冊のうち七冊は、私が綴じた。


 十一冊目は、修繕室の棚で、次の誕生日を待っていた一冊だ。

 夜会の夜更けに、陛下の侍従が取りに来た。

 北へ向かう馬車の座席に置いてくる、とだけ聞いていた。


 包みを棚に戻して、私は湿気で傷んだ日誌の修繕にかかった。

 糊を刷き、浮いた革を押さえる。

 手を動かしているあいだは、余計なことを考えずに済む。


 日が落ちて、ランプを一つ灯した。


 扉が軋んだのは、そのしばらくあとだった。


 燭台を持った殿下が、身を屈めて入ってきた。

 私がいるとは思わなかったのだろう。

 一瞬、引き返しかけて、それから意地を張るように顎を上げた。



「……ここで、何をしている」


「日誌の修繕です。陛下のご命令で」


「父上は、何でも命令にするな」



 殿下は燭台を棚に置き、棚の端の包みに手を伸ばした。

 結び目を解く指が、布を巻いた手のせいでうまく動かない。

 私は手を貸さなかった。


 布の中から、黒い革の典範が出てきた。

 金の留め金に、王家の紋章。

 殿下は、それを書庫の机に置いて、しばらく表紙を見ていた。


 それから、開いた。


 十一冊目にして、初めて。

 殿下の指が、頁を一枚ずつ繰っていく。

 繰るたびに、眉間の皺が深くなる。



「読めない」



 ぽつりと、殿下は言った。



「字が古すぎる。こんなもの、誰が読める」


「あの子は、八つから読んでいました。十で、百八条をすべて」


「……知っている。聞き飽きるほど聞かされた」



 殿下は、閉じかけた頁を、指で押さえて止めた。



「毎年、誕生日に父上から届いた。一度も開けなかった。開けたら、読めないのが分かるだろう。分かったら、あいつの前に立てなくなる」



 それは、私が初めて聞く殿下の本音だった。

 たぶん、殿下自身も、口に出したのは初めてなのだろう。


 殿下は、乱暴に頁を繰った。

 最後のほうで、手が止まる。

 百の数字だけは、読めたらしい。



「第百条は、これか」


「はい」


「何と書いてある」



 お読みしましょうか、と言いかけて、私は口を閉じた。


 あの子が八つのとき、閲覧室の三番目の机で泣いていた。

 私は声をかけなかった。

 声をかければ、あの子は泣きやむ代わりに、自分で読むのをやめてしまう気がしたからだ。



「いつ、書いた」



 殿下が、典範から目を上げずに訊いた。



「今朝、あいつは秋の十日目と言った。十日目というのは」


「あの子の誕生日の、翌日です」



 殿下の指が、頁の上で止まった。



「誕生日」


「秋の九日目です。六年前、殿下がいらっしゃらなかったのが九日目。あの子が書いたのは、その翌日の夜です」



 燭台の炎が、小さく揺れた。


 殿下は、長いあいだ黙っていた。

 それから、ひどくゆっくりと顔を上げた。



「……今は、秋の何日目だ」


「十日目です」



 私は、それ以上は言わなかった。

 言わなくても、この人にも引き算はできる。


 殿下は、典範の上に両手をついた。

 布を巻いた指が、第百条の頁を押さえている。



「昨日、あいつは、何も言わなかった」


「はい」


「僕も、何も言わなかった」



 それは私に向けた言葉ではなかった。

 だから、私も答えなかった。


 私は、修繕の道具を鞄にしまった。

 鞄の底に、小さな古語の辞書が入っている。

 十二の春に、館長からもらったものだ。


 それを取り出して、机の端に置いた。

 殿下の手の届く、けれど目には入りにくい場所に。

 あのときと、同じように。



「忘れ物を、してしまいそうです。出立の前に、取りに参ります」



 殿下は、何も言わなかった。

 私は一礼して、低い扉をくぐった。




◇




 夜明け前、荷馬車の支度が始まる音で目が覚めた。


 あの子は、まだ長屋で眠っているだろう。

 この書庫で何があったかには、気づかないまま。


 書庫の扉を開けると、燃え尽きた蝋燭の匂いが残っていた。


 典範は、閉じて布の上に置かれていた。

 包み直しては、いなかった。

 表紙の上に、布を巻いた手の跡のような、小さな煤の汚れがある。


 机の端の辞書は、昨夜置いたところから、指一本ぶんだけ動いていた。


 私は、それを取らずに扉を閉めた。



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