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真実の愛を見つけたとおっしゃるので、王家の家訓を読み上げて差し上げました  作者: ま
第三章 読み上げる声

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第21話 北へ



 冬の前の最後の荷馬車は、四台だった。


 小麦の袋と、塩の樽と、毛布の束。

 そのいちばん後ろの荷台に、私は石板を三十枚積ませてもらった。

 正式な編纂官になって、初めていただいた俸給で買ったものだ。


 フローラ様の手紙には、石板が足りないと書いてあった。

 雪かき用の板に、炭で字を教えているのだと。

 三十枚あれば、少なくとも板よりは消しやすいはずだ。


 壁の地図は、丸めて鞄に入れてきた。

 古書市で買った、北の街道の地図。

 壁に貼って眺めるだけだった道を、私は今、本当に北へ向かっている。


 レオンは向かいの席で、写本の束を膝に載せていた。

 イレーネ様が付けてくださった年配の侍女は、私の隣で編み物をしている。

 婚約したばかりの二人を、北の砦まで二人きりで行かせる家ではない、ということらしい。


 二日目に、一つ目の川を渡った。

 四日目に、二つ目の川を越えた。

 五日目からは道が細くなり、荷馬車は山の手前の坂を、一台ずつゆっくり上った。


 地図の上を、指でたどる。

 今いるのは、このあたり。

 小さな四角い印まで、もう爪の先ほどしかない。


 七日目の朝、街道の宿で出立の支度をしていると、レオンが小さな包みを差し出した。



「誕生日、ですよね。今日は」



 私は、包みを受け取ったまま固まった。


 秋の、九日目。

 自分でも、半分忘れかけていた。

 旅の日付を数えるのに夢中で、それが何の日なのかまで頭が回っていなかったのだ。


 包みの中には、古い地図が一枚入っていた。

 北の街道の、ずいぶん昔の刷りだ。

 余白のあちこちに、色の褪せたインクで小さな書き込みがある。



 『この宿のパンはうまい』


 『二つ目の川は、春は渡るな』


 『塔の上から見る夕焼けは、王都のどこより赤い』


「古書市の、あの屋台で見つけました。前の持ち主が、何度もこの道を歩いた人らしくて」


「……前の持ち主の、書き込み」


「はい。私の好きなものと、あなたの好きなものが、一枚に載っていたので」



 十年、誕生日は待つ日だった。

 来ると言った人が来ない日だった。


 その日の朝に、何も言わなくても来てくれる人がいる。

 私は地図を胸に抱えて、うまく声が出せなかった。

 侍女が、編み物から顔も上げずに「よろしゅうございましたね」と言った。




◇




 グレイ砦に着いたのは、七日目の夕方だった。


 山のふもとの灰色の岩の上に、灰色の石の塔が立っている。

 低い石垣と、木の家が十軒ほど。

 地図の小さな四角い印は、本当は、夕焼けの中に立つ石の塔だった。


 荷馬車が石垣の門をくぐると、子どもたちが一斉に駆け寄ってきた。

 前歯の一本抜けた男の子が、荷台を覗き込んで大声を上げる。



「先生、石板だ! いっぱいある!」



 長屋の端の戸が開いて、栗色の毛糸の肩掛けをした人が飛び出してきた。

 両手が、炭で真っ黒だった。



「セシリア様! 本当に、セシリア様です!」



 フローラ様は、黒い手のまま私に抱きつこうとして、寸前で気づいて止まった。

 それから、自分の手と私の外套を見比べて、困った顔で笑う。

 夜会の大広間で、殿下の腕にしがみついていた人と同じ人だとは、とても思えなかった。


 中庭の奥から、乾いた音が聞こえていた。


 カン、と高い音がして、それから、何かが転がる音。

 しばらくして、また、カン。

 薪を割る音だった。


 薪割りの台の前に、一人の男の人が立っていた。


 袖をまくった腕は細いままで、手には布が巻いてある。

 金色の髪は伸びて、後ろで無造作に括られていた。

 斧を振り下ろした拍子に、丸太が二つに割れて左右へ転がった。


 殿下は、汗を拭いながらこちらを振り向いた。

 そして、私を見て、斧を下ろすのを忘れた。



「……何をしに来た」


「陛下の命で参りました。審議の次第を、殿下に読み聞かせるようにと」


「読み聞かせ、だと」



 殿下は眉をしかめ、私の隣に立つレオンを見て、さらに顔をしかめた。



「今、二本に一本は割れるんです! すごいでしょう、セシリア様」



 フローラ様が、黒い手を振りながら駆けてきて言った。

 殿下は「余計なことを言うな」と言って、斧を台に立てかけた。

 耳の先が、夕焼けと同じ色になっていた。


 殿下は、私の誕生日のことは何も言わなかった。

 知らないのか、覚えていないのか。どちらでも、同じことだった。

 私も、何も言わなかった。


 その夜は、塔の一階の食堂で、砦の皆と同じ麦の粥をいただいた。

 白い髭を胸まで垂らした隊長が、熊の毛皮の肩を揺らして笑った。



「編纂官殿が、石板をお持ちくださるとは。今年の冬は、子どもらの字がうまくなりますな」



 粥のあと、食堂の暖炉の前は、そのまま教室になった。


 子どもたちが、新しい石板を一枚ずつ抱えて床に座る。

 フローラ様は石筆を配りながら、一人ずつ名前を呼んだ。

 前歯の抜けた男の子は、トビというらしい。



「今日は、自分の名前を書きます。間違えても、袖で消せます。もう板を削らなくていいんですよ」



 子どもたちが、わっと声を上げた。


 フローラ様は、トビの後ろにしゃがんで、小さな手に自分の手を添えた。

 一画ずつ、ゆっくり。

 急かさずに、相手が書き終わるのを待っている。


 その横顔を見ていて、気づいた。

 この人は、誰かに教わった教え方をしているのではない。

 自分が字を覚えたときに、こうしてほしかったやり方で教えているのだ。


 殿下は、食堂の隅の卓で、一人で粥の残りを食べていた。

 ときどき、匙を止めて、暖炉の前の石板を見ている。

 トビが自分の名前を書き上げて歓声を上げたとき、殿下の口の端が、ほんの少しだけ動いた。


 その夜、私は侍女と一緒に、長屋の端のフローラ様の隣の部屋に泊めてもらった。


 壁越しに婚約のことを話すと、フローラ様は「すごいです」と三回言った。

 殿下には、まだ言わないでおいてほしいと頼んだ。

 審議の次第を読み上げる前に、余計なことで殿下の耳をふさぎたくなかったからだ。


 壁の向こうから、遅くまで、石板を拭く小さな音が聞こえていた。




◇




 翌朝、私は同じ食堂で、陛下の書状を広げた。


 暖炉の前に、殿下が座っている。

 その隣にフローラ様、少し離れて隊長。

 レオンは、入口の柱のそばに立っていた。


 殿下は、腕を組んで顎を上げていた。

 夜会の大広間で、私を見下ろしたときと同じ顔だ。

 けれど、組んだ腕の先で、布を巻いた指が落ち着きなく動いている。


 私は、王子妃教育の笑顔を作らなかった。

 編纂官の声で、読み上げた。



「『典礼院の審議の次第。第百条は、はじめから有効である。ゆえに、アルベルトの撤回は撤回にあらず。アルベルトの書いた第三十条の推挙状は、推挙にあらず』」



 殿下の腕が、ほどけた。



「待て。伯父上の手紙には、審議は延びたと」


「『ドレクセル公オスヴァルトは、王家の記録を損ねしめた者として、第七十二条により、典礼院に席を持たず』」



 食堂が、しんとした。

 暖炉の薪がはぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。


 殿下の唇が、何かを言おうとして動いた。

 言葉の綾だ、と言うのだろうと思った。

 十年、この人が困ったときに言うのは、いつもその言葉だったから。


 けれど、殿下は何も言わなかった。

 私は、書状の最後の行に目を落とした。



「『第百条の起草者、典礼官ギルベルト・ハース。原案を書いた者、セシリア・ヴァレンティーヌ。当時十二歳』」



 読み終えて、顔を上げる。

 殿下が、まっすぐに私を見ていた。

 十年で初めて、この人が私の顔をちゃんと見ている気がした。



「……あの条文を書いたのは、君だというのは、本当か」



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