第20話 婚約の誓詞
翌朝、編纂室の机に白い紙を広げて、私は一行目で手が止まった。
ペン先が、勝手に動き出しそうになる。
家と家との契りを重んじ、互いの家名を辱めず。
十年、王子妃の書き取りで何十回も写した文言だ。
実際、一行目にはもう「家と家との」と書いてしまっていた。
私はその五文字に、二本の線を引いた。
「文例を写さん誓詞か」
窓際の机から、ギルベルト様の声がした。
拡大鏡越しに、こちらの紙を覗いている。
「はい。レオンが、そうしようと」
「わしは典礼官と編纂官で五十年やっとるが、文例を写さん誓詞は、二度しか見たことがない」
「その二組は、どうなりましたか」
「一組は、五十年連れ添うた。わしと、死んだ家内じゃ」
「もう一組は」
「今、わしの前で書いとる」
私は、ペンを持ったまま顔を上げた。
ギルベルト様はもう、拡大鏡を写本に戻している。
奥様のことを、この方が口にしたのは初めてだった。
「何を書いても構わん。ただし、守れんことは書くな。誓詞は、一度書いたら翻せん」
「第百条と、同じですね」
「お前さんの書いた条文じゃろう。お前さんが一番よう知っとる」
昼まで、紙は線だらけになった。
家名、契り、貞節。
知っている言葉はどれも、典範の文例か、王子妃教育の書き取りだった。
私の言葉は、どこにもない。
編纂室の扉は、閲覧室に向けて半分開けてある。
その向こうから、かすかな音が聞こえてきた。
糊を刷く音と、紙の繊維を指でならす音だ。
レオンが、閲覧室の修繕の机で写本を直している。
昨日、閲覧室で婚約を申し込んだ人が、今日はいつもどおり、傷んだ頁に向かっている。
その音を聞いているうちに、ペンを握っていた指から力が抜けた。
そこで、思い出した。
百日のあいだに、私が自分で見つけたものがある。
イレーネ様に訊かれて、やっと言えたもの。
新しい紙を一枚出して、私は書き始めた。
今度は、一行も線を引かなかった。
◇
誓詞を交わすのは、その日の夕刻、ヴァレンティーヌの屋敷の客間だった。
十年、この客間には王子妃教育の先生方ばかりが通された。
壁の絵も、卓の花も、王宮から来る人の目に合わせて選んである。
その部屋に、グラーツ家の灰色のドレスと紺の上着が並ぶのは、なんだか不思議な眺めだった。
レオンは、母君の半歩後ろに立っていた。
昼間の修繕の机では落ち着いて見えたのに、客間の入口で一度、敷居につまずきかけた。
私は見なかったことにした。
立会人は、ギルベルト様。
グラーツ家からはイレーネ様がいらして、公爵様は領地から『異存なし』の一行を寄越された。
父は、いつもの厳しい顔で暖炉の脇に座っている。
第六十条の習わしでは、誓詞は自分で読み上げてから相手に渡す。
先に立ったのは、レオンだった。
「『私は、あなたが読み上げるとき、いちばん近い席で聞きます』」
紺の上着の胸から出した紙は、昨日と同じ二つ折りだった。
声はいつもどおり淡々としているのに、紙の端が少しだけ震えている。
「『あなたが分からない字を差し出したら、余白に読み方を書きます。あなたが答えを探しているあいだは、急かしません。あなたの声を、誰にも切り取らせません』」
レオンは、そこで紙を下ろした。
四行だけだった。
この人らしい、余白の多い誓詞だ。
イレーネ様が、ほんの少しだけ目を細める。
父は、黙って顎を引いた。
次は、私の番だった。
立ち上がると、膝が少し笑っている。
夜会の大広間で典範を読み上げたときより、ずっと緊張していた。
「『私は、あなたの好きなものを三つ知っています。前の持ち主の書き込みと、蜂蜜のパンと、閉館後の閲覧室に灯しておくランプ二つ』」
レオンが、ぴくりと眉を上げた。
甘いものは兄には言わないで、と言われたのを思い出す。
フランツ様は今、領地にいらっしゃるので、たぶん大丈夫だ。
「『私の好きなものも、三つあります。地図と、条文の由来を読むことと――』」
そこで、一度だけ息を継いだ。
「『閉館後の閲覧室で、隣の机から聞こえる、紙を直す音』」
客間が、静かになった。
レオンが、私を見ている。
グラーツ家の書斎で私がこの三つを答えた日、レオンはイレーネ様に席を外させられていた。
今、初めて聞いたのだ。
「『この六つを、一つも減らさずに持っていくことを誓います。足りなくなったら、二人で探して、足します』」
読み終えて、紙を下ろした。
レオンは眼鏡を押し上げようとして、指が眼鏡に届かず、空を切った。
「……音、ですか」
「はい。音です」
「音ですか、人ですか、とわたくしが訊いたら」
イレーネ様が、静かに口を挟んだ。
「この子は、真っ赤になって、しばらく黙りましたよ。レオン」
「母上は、知っていたのですか」
「三つ言えるようになりましたか、と手紙を書いたのは、わたくしですから」
レオンの耳が、上着の紺と並ぶと、ひどく目立つ色になった。
父が、暖炉のほうを向いて小さく咳をした。
笑ったのだと気づくのに、少しかかった。
「……十年、お前には典範の文言ばかり書かせた」
父は、暖炉を見たまま言った。
「自分の言葉で書けるとは、知らなかった」
「私も、知りませんでした。お父様」
ギルベルト様が、二枚の誓詞を手元に引き寄せた。
立会人の署名をするのだ。
拡大鏡を紙に近づけ、一行ずつ、口の中で読んでいく。
「蜂蜜の……パン。ふむ。蜂蜜の、ペン」
「パンです、ギルベルト様」
「分かっとる。わしの目でも、そのくらいは読める」
たぶん、読めていなかった。
ギルベルト様は不機嫌そうに鼻を鳴らし、二枚の余白に、角張った大きな字で名前を書いた。
レオンの誓詞が、私の手に渡される。
私の誓詞が、レオンの手に渡る。
それで、百五十年の文例を一度も写さない婚約が、成った。
窓辺で二人になったとき、レオンが小さな声で言った。
「三つ目を、私は誓詞で初めて聞きました」
「はい」
「明日から、閉館後に紙を直すとき、音を立てすぎないように気をつけます」
「立ててください。聞こえないと、困ります」
レオンは、今度こそ眼鏡を押し上げた。
窓の外はもう暗く、硝子に二人の顔が並んで映っている。
夜会の帰りの馬車で見た、知らない顔をした私が、その隣にいた。
イレーネ様が立ち上がりかけたとき、客間の扉が叩かれた。
「王宮から、お使いが」
執事に案内されて入ってきたのは、陛下の侍従だった。
六年前、書斎の扉の前に立っていた人だ。
侍従は客間の全員に一礼すると、封をした書状を私に差し出した。
陛下の字だった。
短い文面の最後に、もう一度、陛下の署名がある。
私は、それを声に出して読んだ。
『典範編纂官に命ず。グレイ砦へ赴き、審議の次第を、アルベルトに読み聞かせよ。副館長を伴うこと。明朝、冬の前の最後の荷馬車が北へ出る』




