第19話 百日が明けて
夏の最後の夜、私は眠れなかった。
寝台の上で、第一条から順に唱えてみる。
第六十二条まで来たところで、窓の外が白み始めた。
百日が、明けたのだ。
審議のあとの五十三日は、支度に追われた審議の前の日々より、ずっと静かだった。
正式な編纂官になっても、机は同じ机だ。
補佐の二文字が辞令から消えただけで、仕事の中身は何も変わらない。
変わったのは、手紙の山だった。
審議の翌週から、相談の手紙が戻ってきた。
半分に減っていた山が、半月で前の倍になった。
宮廷の噂も、向きを変えた。
六年前から王子を恨んでいた娘は、いつの間にか「読み上げる令嬢」になっていた。
どちらも私なのだから、好きに呼べばいいと思う。
審議から十日ほどたった朝、ドレクセル家の執事が図書館に細長い箱を届けた。
手紙は付いていなかった。
中には、六年前の秋の三日分の頁が入っていた。
館長は、まず修繕台帳を開いた。
『切除した三日分、戻る。綴じ直した者、エーリヒ・ホルン』と書いてから、針を取った。
原案の紙は、裁可の控えの隣に綴じられた。
私とレオンは、修繕室の作業台の向かいで、それを見ていた。
最後の結び目は、左へ折り込まれた。
館長は糸を切ると、私たちを見て少しだけ笑った。
館長の処分については、陛下が一言だけ仰せになったと聞いた。
――自分の名を台帳に書いた者を、それ以上罰する条文を、私は知らない。
閣下は、夏の終わりを待たずに領地へ下がった。
典礼院の正面の高い席には、今は誰も座っていない。
昨日の夕方、帰り支度をしていると、ギルベルト様が拡大鏡を置いて言った。
「明日は安息日じゃ。編纂室には来んでええ」
「明日は、もともとお休みですけれど」
「念のためじゃ。わしも来ん。副館長も、昼までは来んじゃろう」
なぜ副館長の予定までご存じなのか、とは訊かなかった。
ギルベルト様は、窓のほうを向いて、わざとらしく咳払いをした。
この方に隠しごとができる人は、王宮に一人もいないのかもしれない。
◇
百日が明けた朝は、安息日だった。
閲覧室は閉まっている。
私は辞令と一緒に預かった通用口の鍵で、図書館に入った。
誰もいない閲覧室は、思っていたより広かった。
南の窓際、三番目の机。
机の端には、角の擦り切れた古語の辞書が置いてある。
十年前、この机で泣いていた私のそばに、誰かが忘れ物のように置いていったものだ。
椅子を引いて、座った。
秋の最初の光が、左の肩越しに机へ落ちる。
陛下への謁見は、朝の早い時刻だと聞いていた。
そのあと、あの人がどこへ行くのかは知らない。
けれど、最後に来る場所なら知っている。
鐘が九つ鳴ったころ、通用口の扉が開く音がした。
足音は、閲覧室の入口で止まった。
顔を上げると、レオンが立っていた。
黒い外套ではなかった。
グラーツ家の紋章を胸に縫い取った、紺の上着だ。
髪は丁寧に撫でつけられていて、それなのに、少しだけ息が上がっている。
「……どうして、ここに」
「安息日でも、編纂官は鍵を持っていますので」
「そういうことでは、なくて」
レオンは眼鏡を押し上げ、閲覧室の中ほどまで歩いてきた。
それから、私の机の前で立ち止まる。
「陛下にお目通りして、婚約の申し込みをお伝えしてきました。それから、ヴァレンティーヌ侯爵のお屋敷へ」
「父のところへ?」
「正しい順番で、と申し上げましたので。陛下、あなたのお父上、それから、あなたです」
父は今朝、いつもより早く朝食を済ませて書斎にこもっていた。
そういうことだったのか。
「父は、何と」
「『娘に聞け』と。それだけでした」
いかにも父の言いそうなことで、私は少し笑ってしまった。
レオンは、笑わなかった。
胸に当てた手が、わずかに強張っている。
この人は、ここに私がいるとは思っていなかったのだ。
侯爵家に戻って、改めて申し込むつもりだったのだろう。
だとすれば、言っておかなければならないことがある。
「あの、レオン。一つ、先に申し上げておきます」
「はい」
「謁見のことは、存じていました。審議の日の夕方に、陛下から伺ったので」
レオンが、動かなくなった。
眼鏡の奥の目が、ゆっくりと瞬く。
「……五十四日前から、ですか」
「はい。五十四日前から」
「陛下は、口の堅い方だと」
「おっしゃっていません。ペンを動かしながら、ついでのように」
レオンは片手で目元を覆い、長い息を吐いた。
耳が、みるみる赤くなっていく。
「五十四日、あなたは知っていて、黙っていたわけですね」
「レオンが、十八から黙っていたことに比べれば」
言ってから、少し意地が悪かったかと思う。
けれどレオンは、手を下ろして、小さく笑った。
眉を下げた、困ったような笑い方だった。
「それは、言い返せません」
閲覧室が、しんと静かになった。
レオンは、私の机の横に立った。
自分の修繕の机ではなく、三番目の机の、私のすぐ隣に。
「十年前、この机で泣いていた子に、私は声をかけませんでした。辞書を一冊、置いただけです」
机の端の辞書に、二人とも目を落とす。
「声をかけるのは、その子が自分で選べるようになってからだと思っていました。百日は、陛下がそのために下さった時間です。……ですから、今日は、声をかけます」
レオンは、胸に手を当てた。
テラスの夜と同じ仕草で、けれど今度は、声が少しも揺れなかった。
「セシリア・ヴァレンティーヌ嬢。私と、婚約していただけますか」
テラスの夜、私はほとんど考えずに答えた。
口が先に動いて、そのあとで、自分が何を言ったのかに気づいた。
今日は、違う。
百日かけて、考えた。
地図が好きなことも、条文の由来を読むのが好きなことも、この百日で知った。
隣の机から聞こえる音が好きなことも。
王子妃の好みではなく、私の好みで選んだものが、ちゃんと三つある。
その三つを抱えたまま、私は椅子から立ち上がった。
「はい。百日かけて、自分で決めました」
レオンは、何も言わなかった。
ただ、眼鏡を外して、目元を指で押さえた。
審議の日に、館長の前で見せたのと同じ仕草だった。
私は、その手が下りるのを待った。
待つのは、十年で慣れている。
けれど、こんなに待つのが楽しいのは初めてだった。
「……婚約は、第六十条ですね」
眼鏡をかけ直したレオンが、いつもの淡々とした声で言った。
「『婚約は、両人みずから誓詞を書き、交わして成る』。誓詞は、典範の付録の文例を写すのが習わしです」
「家と家との契りを重んじ、互いの家名を辱めず――でしたね」
「はい。百五十年、どの家も同じ文言を写しています」
レオンは上着の内側から、二つに折った白い紙を二枚取り出した。
一枚を、私の机に置く。
もう一枚は、自分の手に残した。
「文例は写さずに、書きませんか。典範に書いていないことを、あなたの言葉で」




