第18話 審議(後)
閣下は、すぐには答えなかった。
掲げていた紙を、ゆっくりと胸の前へ下ろす。
指が、右下の隅を覆うように動いた。
もう遅い、と私は思う。
閣下が評議員たちに見せたかったのは、震える字と涙の染みだ。
隅の小さな青い印など、誰も気に留めないと思ったのだろう。
十八日目の夜に閉架へ降りていなければ、私も見落としていた。
「典礼院の筆頭は、裁可録を閲覧できる。改めた折に、取り寄せたまでのこと」
「閲覧は、できます。けれど、その印は閲覧の印ではありません」
私は、書見台の横に立ったまま言った。
「閉架に収めた紙には、一枚残らず、その印を押します。その原案は、陛下の裁可の控えに添えて、裁可録に綴じられていたはずです。秋の十六日目の頁と一緒に」
議場が、しんと静まった。
「原案が閣下のお手元にあるのなら、同じ綴じ目の頁は、今どこにあるのでしょうか。典礼官の署名のある、清書の頁は」
閣下の髭が、わずかに動いた。
「……裁可録には誤記があった。典礼院で改めるため、外させた」
言ってから、閣下は口を閉じた。
握っていた原案を、書見台の上へ置く。
手元の紙を読んでいた評議員が、顔を上げる。
「誤記とは、何の誤記ですかな、閣下」
答えは、無かった。
誤記を正したのなら、正した頁が典礼院にあるはずだ。
閣下は、それを出せない。
出せば、典礼官の署名が、ここにいる全員の目に触れる。
◇
議場の扉が開いたのは、そのときだった。
白い髪を後ろで束ねた老人が、赤い革の帳面を抱えて立っている。
上着の襟が、少しだけ曲がっていた。
急いで来たのだと、ひと目で分かる。
館長とは、閲覧室で十年、会釈を交わしてきた。
いつも穏やかで、修繕室の奥からめったに出てこない方だ。
その方が、息を切らして典礼院の扉の前に立っている。
傍聴の席で、レオンが小さく息をのんだ。
「王立図書館の館長、エーリヒ・ホルンです。遅れて申し訳ない」
館長は、裁可録を書見台の脇に置いた。
その上に、折り畳んだ紙を一枚重ねる。
「夜会から五日目の晩、閣下がこの命令書を持って図書館にお見えになった。裁可録の三日分を外して届けよ。修繕台帳には記すな、と」
評議員の一人が紙を開き、隣へ回した。
典礼院の印。
角張った、几帳面な字。
申し立ての写しと、同じ筆だった。
「切ったのは、私です。中身を読まずに従った。ここへ来る前に、修繕台帳にそう書き足してきました。六年前の裁可録、秋の十四日目から十六日目、三日分を切除。切った者、エーリヒ・ホルン」
館長は、閣下のほうを見ずに言った。
「燃やせと言われた紙を、燃やせなかった。紙を守る者は、紙より先に死ぬ。私は、まだ死んでいないのでね」
レオンが眼鏡を外して、目元を押さえるのが見えた。
綴じた人の名前を、あの人は今日まで一度も口にしなかった。
私も、訊かなかった。
その約束が、今、ここで終わったのだ。
◇
イレーネ様が、静かに立ち上がった。
「前の女官長、イレーネ・グラーツです。女官長の日誌は、王宮の記録として扱われます。六年前の秋の頁を、読み上げてもよろしいかしら」
誰も、止めなかった。
献上は、十二日目の夕刻。
清書は、十五日目の夜。典礼官ギルベルト・ハース。
裁可は、十六日目の午。
イレーネ様の声は、切られた三日分を、一枚ずつ綴じ直していくようだった。
そして、最後の一行。
「『同日、夕刻。ドレクセル公オスヴァルト、陛下に謁見。第百条の裁可を取り消されたしと奏上す。陛下、これを退けらる。公、退出の際に曰く、子どもの作文を王家の法とは呼ばぬ、と』」
イレーネ様は、帳面を閉じた。
「閣下は六年前のあの日、裁可のその日のうちに、陛下に取り消しを願われました。子どもの作文、と。今日と同じお言葉で」
ギルベルト様が、杖をついて立った。
「年寄りの記憶に、女官長の日誌と、閣下ご自身の命令書が並んだ。三つとも、同じ秋を指しとる。耄碌しとるのは、どちらかのう」
議場の誰も、笑わなかった。
◇
「編纂官補佐」
腕を組んでいた評議員が、私を呼んだ。
「王家の記録を損ねた者について、典範は何と言うか」
私は、書見台の原本の頁を繰った。
第百条よりずっと手前。
余白に由来の書き込みもない、短い条文だ。
「典範第七十二条。『王家の記録を損ね、または人をして損ねしめた者は、典礼院に席を持たず』」
声は、今度も震えなかった。
閣下は、長いこと杖の握りを見つめていた。
それから立ち上がり、一段高い席を降りた。
杖の音が、丸い天井に一つずつ響く。
腕を組んでいた評議員が、年長の者として代わりの席に着いた。
「第百条の無効の確認に、賛成の者は」
手は、一本も上がらなかった。
閣下の側と言われた五人は、揃って膝の上に目を落としている。
第百七条は、六年前に満たされていた。
起草したのは典礼官で、陛下が裁可なさった。
第百条は、はじめから典範の条文だったのだ。
殿下の撤回は、撤回にならない。
北の砦で書かれた推挙状は、紙切れのまま。
傍聴の席で、ユリウス殿下が、膝の上で組んでいた手をほどいた。
ローゼン家の縁談は、推挙の無いまま立ち消えになるだろう。
茶会の隅で刺繍をしていた十五歳の方に、咎は一つもない。
閣下は扉の前で一度だけ足を止め、書見台の上の紙を見た。
泣きながら書いた、私の原案。
何か言うかと思ったけれど、閣下は何も言わずに出ていった。
あの方を席から下ろしたのは、私ではない。
あの方が切らせた、三日分の頁だ。
館長が原案を手に取り、裁可録の上にそっと置いた。
「頁が戻ったら、私が綴じ直す。今度は、台帳に書いてからだ」
傍聴の席を見ると、レオンはもう眼鏡をかけ直していた。
目が合うと、あの人は小さく頷いた。
私も頷き返して、泣くのはもう少しあとにしようと決めた。
◇
日が傾いたころ、私は陛下の書斎に呼ばれた。
六年前、紙を一枚握って立った部屋だ。
あのとき陛下は、紙を読み終えるまで一言もおっしゃらなかった。
私は泣いた跡を隠すこともできずに、絨毯の模様ばかり数えていた。
陛下は窓を背にして座り、机の上の一枚に署名をしていた。
「審議には、口を出さなかった」
「はい」
「だから、これは審議のあとの話だ」
差し出された紙には、見慣れた陛下の字で、こう書いてあった。
『セシリア・ヴァレンティーヌを、典範編纂官に任ず』
補佐の二文字が、無かった。
十年を王子妃の肩書きのために使って、それを一晩で手放した。
代わりに手の中にあるのは、私の名前と、私の仕事だけが書かれた一枚の紙だ。
「お前の書いたものを、お前の手で守ったな」
私は、深く頭を下げた。
王子妃教育の笑顔は、使わなかった。
顔を上げると、陛下はもう次の書類に目を落としていた。
「それと、もう一つ」
ペンを動かしながら、陛下は言った。
「グラーツの次男から、謁見の願いが出ている。百日が明けた朝に、だそうだ」
↓第2章の番外編「最初の講義」(イレーネ視点。女官長の日誌と、十年前の講義の日)
https://note.com/wise_turtle184/n/n286a06d9c6a6?app_launch=false




