第16話 読み上げる側
審議の前の二十二日は、驚くほど早く過ぎた。
ギルベルト様は、六年前の晩のことを、大きな字で紙に書き起こした。
拡大鏡を使っても一日に十行しか書けず、書き終えるのに十日かかった。
最後の行に署名をして、「これでもう、耄碌したとは言わせん」と鼻を鳴らした。
イレーネ様からは、日誌の写しが届いた。
原本は審議の日にご自分で持って来る、と添え書きがあった。
ユリウス殿下の手紙に、陛下はまだお答えにならない。
ただ、ローゼン伯爵家から婚約の支度が始まったという話も、聞こえてこなかった。
館長は、何も言わない。
閲覧室ですれ違うと、いつもどおり穏やかに会釈をして、修繕室へ入っていく。
その背中を、レオン様が黙って見送っていた。
宮廷では、噂が一つ流れていた。
夜会で王子を砦へ送った侯爵令嬢は、六年前から王子を恨んでいた。
恨みを晴らすために、自分で法を書いた。
編纂室に届く相談の手紙は、半分に減った。
◇
「明日の審議では、はじめに編纂官が第百条を読み上げる。決まりじゃ」
夕方、ギルベルト様が言った。
窓の外が、橙色に染まり始めている。
「わしの目では、条文を読み違える。お嬢さん、お前が読め」
「……私は、読まないほうがいいと思います」
ギルベルト様の眉が、ぴくりと動いた。
昨夜から、ずっと考えていることだ。
私が典礼院の真ん中に立って第百条を読めば、評議員たちは何を見るだろう。
恨みを晴らした娘が、自分の書いた条文を、自分の声で守ろうとしている姿。
閣下の申し立てのとおりの絵が、そこに出来上がる。
それに、審議に出るのは私だけではない。
ギルベルト様の書き起こし、イレーネ様の日誌。
そこには、十六歳で古語を直した少年のことも、母親に頼みごとをした少年のことも出てくる。
私が前に立てば立つほど、グラーツ家も、恨みの片棒を担いだように見られてしまう。
「典礼官殿に読んでいただくのが、いちばん角が立ちません。日誌には、グラーツ家の方々のことも出てきますから」
「角、のう」
ギルベルト様は、それきり何も言わなかった。
拡大鏡を胸のポケットに差し、杖をついて、先に帰っていった。
扉が閉まる音が、いつもより少しだけ大きかった。
◇
閉館後の閲覧室に、ランプが二つ灯っていた。
三番目の机と、隣の修繕の机。
レオン様の好きなもの。
そして、私の三つ目。
私は三番目の机に座って、何も書かずに第百条の頁を見ている。
隣から、紙を直す小さな音が聞こえる。
糊を伸ばす音、刷毛を置く音、紙を押さえる指の音。
この二十二日、私はこの音を聞きながら、審議の支度をしてきた。
第百七条の古い写しを当たり、第百八条の由来を読み、閣下が持ち出しそうな条文を一つずつ書き出した。
机の端の古語の辞書は、角がまた少し擦り減った。
支度は、できている。
できていないのは、明日、どこに立つかだけだ。
窓の外は、もう暗い。
中庭の木の影も見えない。
ガラスに、ランプを二つ灯した閲覧室と、私の顔が映っている。
ずいぶん、頼りない顔だと思う。
やがて、隣の音が止んだ。
「ギルベルトさんから聞きました。読まないそうですね」
「……はい」
「理由も、聞きました。私の家のことを、気にしてくれたと」
レオン様は、修繕の手を拭いて、椅子をこちらへ向けた。
眼鏡を外して、机の上に置く。
眼鏡のないこの人の顔を見るのは、初めてだった。
「一つ、あなたに言っていないことがあります」
ランプの炎が、二つ並んで揺れている。
「裁可録の、切り取られた頁。名前が残っているはずだと、前にお話ししましたね。……はず、ではありませんでした。原案の欄に、セシリア・ヴァレンティーヌ、と書いてありました。私は、閉架の鍵を預かった十八の年から、それをこの目で見て知っていました」
私は、息をのんだ。
「何度も読みました。閉架に降りるたびに。十二の子どもの名前が、王家の帳面に正しく残っているのを見るのが、好きだったんです。……筆頭評議員が裁可録を読めることも、知っていた。知っていて、あなたに言わなかった。閉架は私の鍵の内側だから、大丈夫だと思っていた」
レオン様は、膝の上で両手を組んだ。
紙の縁で切った小さな傷が、ランプの光に浮かんで見える。
「その頁は、切り取られました。私の鍵の内側で。……申し訳ありません」
「レオン様のせいでは」
「最後まで、聞いてください」
静かな声だった。
けれど、今まで聞いたどの声よりも、引かない声だった。
「頁は切り取れても、あなたの声は切り取れません。明日、あの条文を読み上げるのは、書いた人であってほしい。私の家のことなら、母が自分で日誌を持って行くと決めたんです。あの人が、自分で」
私は、机の上の典範に目を落とした。
六年前の夜、泣きながら書いた字。
その余白に、この人が書き添えてくれた古語。
あの紙を陛下のもとへ届けたのは、私の足と、この人の頼みと、女官長の手だった。
私一人で書いた条文では、なかったのだ。
恨みで書いたのかどうか、私にはまだ分からない。
けれど、私一人の恨みで典範に入った条文ではない。
それだけは、今なら、誰の前でも言える。
「イレーネ様から、聞きました。十六のあなたが、お母様に頼んでくださったこと」
レオン様の耳が、みるみる赤くなった。
「……母は、何でも書き留めるので」
「ありがとうございます。六年分、遅くなりました」
私は、椅子を少しだけあの人のほうへ向けた。
喉の奥が熱い。
けれど、泣くのはやめておく。
明日、声がかすれたら困るから。
「読みます。明日、私が第百条を読み上げます。……レオン」
初めて、様を付けずに呼んだ。
あの人は、眼鏡を外したままの目で、長いあいだ私を見ていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「百日が過ぎたら、もう一度求婚します。今度は、正しい順番で」




