第15話 公爵夫人の書庫
安息日の午後、私はふたたびグラーツ公爵家の門をくぐった。
前の晩に、短い手紙を出してあった。
お伺いしてもよろしいでしょうか、と。
返事は、その夜のうちに届いた。
『三つ、言えるようになりましたか』
それだけだった。
イレーネ様らしい、問いの形の返事。
私は便箋を持ったまま、しばらく机の前で考えた。
言える、と思う。
たぶん。
馬車の窓から、西の丘の坂が見えてくる。
審議まで、あと二十三日。
百日は、四分の一が過ぎようとしている。
ユリウス殿下の手紙は、一昨日、陛下の手に渡ったと聞いた。
陛下は、まだ何もおっしゃらない。
ドレクセル公爵閣下の屋敷からも、何の知らせもない。
静かすぎて、かえって落ち着かなかった。
西の丘の白い館は、二週間前と同じ静けさで私を迎える。
フランツ様は領地へ戻られたそうで、廊下に陽気な声は響いていなかった。
書斎の扉の前で、レオン様が待っている。
今日は外套を着ていない。
白いシャツの袖を肘までまくっていて、図書館で見るよりずっと若く見える。
「母が、あなたと二人で話したいそうです。私は、席を外すように言われました」
「……追い出されたのですか」
「ええ。この家で、母に逆らえる者はいません」
レオン様は、真面目な顔で眼鏡を押し上げた。
それから少しだけ声を落とす。
「日誌のことは、母に話してあります。あとは、あなたが訊いてください」
◇
イレーネ様は、灰色のドレスで窓際の椅子に座っている。
膝の上に、革の帳面が一冊置いてある。
私が向かいに腰を下ろすと、灰色の目がまっすぐこちらを見た。
「では、伺いましょうか」
私は、膝の上で手を重ねた。
王子妃教育の笑顔は、今日は使わないと決めてきた。
「一つ目は、地図です。古書市で、北の街道の地図を買いました。道がどこへ続いていて、誰が歩いたのかを考えていると、時間を忘れます」
「二つ目は」
「条文の由来を読むことです。誰が、何のために、その一条を書いたのか。典範の余白には、書いた人の困りごとが残っています」
イレーネ様は、黙って頷く。
続きを促すように、指先で帳面の表紙を軽く叩く。
三つ目を、私は昨夜から何度も言い直していた。
口に出す前に、頬が熱くなるのが分かる。
「三つ目は……音です。閉館後の閲覧室で、隣の机から聞こえる、紙を直す音」
イレーネ様の眉が、ほんのわずかに上がった。
「それは、音ですか。それとも、人ですか」
「……音、です」
「そうですか」
イレーネ様は、口元に手を当てた。
笑いをこらえているのだと、しばらくしてから気がついた。
この方が笑うところを、私は十年で一度も見たことがない。
「いいでしょう。三つとも、王子妃には要らないものです。よく探しましたね」
◇
イレーネ様は、膝の上の帳面を開いた。
背に、六年前の年号が刻まれている。
「あなたは、あの日、自分で陛下のところへ行ったと思っていますね」
「……はい。王子妃教育の帰りに、廊下でイレーネ様にお会いして。私が紙を握っているのを見て、陛下の書斎まで案内してくださいました」
「偶然だと思いましたか」
私は、答えられなかった。
六年前の秋。
泣き腫らした目で王宮の廊下を歩いていたら、女官長が向こうから来た。
何も訊かずに、私の手を引いてくれた。
あのときは、ただ運が良かったのだと思っていた。
「その二日前の夜、レオンが遅くに帰ってきました。十六でした。この書斎に来て、わたくしにこう言ったのです」
イレーネ様は、帳面の上に指を置いたまま、窓の外に目をやった。
「明日か明後日、王宮で、紙を持って泣いている女の子がいたら、陛下の書斎まで連れて行ってあげてください。何も訊かずに、と」
息が、止まった。
閲覧室で古語を直してくれた少年は、あの夜、何も訊かなかった。
訊かないまま、私がその紙をどうするつもりなのかを、分かっていたのだ。
そして、自分では陛下に会えない十六歳の見習いは、母親に頼んだ。
この人は、いつもそうだ。
辞書を置き、乾いた布を置き、門の灯りを消さずに待つ。
私が気づくより、ずっと前に。
「あの子がわたくしに頼みごとをしたのは、後にも先にも、あの一度だけです。だから、日誌にも書きました」
私は、書斎の扉のほうを振り返りそうになるのをこらえる。
今すぐ、あの人の顔が見たい。
扉の向こうの廊下にいるのか、それとも庭に出ているのか。
会って、何と言えばいいのかは分からない。
六年前、ありがとうと言わなかった。
辞書のときも、布のときも、灯りのときも。
知らなかったのだから、言えるはずがなかった。
けれど今は、知っている。
知ってしまったものは、もう、知らなかったことにはできない。
私は膝の上で、両手を強く握り合わせた。
◇
イレーネ様は、頁を私のほうへ向けた。
几帳面な、細い字が並んでいる。
『秋の十二日目、夕刻。ヴァレンティーヌ侯爵令嬢(十二)、陛下に紙一枚を献上。泣いた跡あり。わたくしが書斎まで案内す』
『秋の十五日目、夜。典礼官ギルベルト・ハース、陛下の召しにより書斎へ。一刻ののち退出。清書の紙を携う』
『秋の十六日目、午。陛下、典範第百条を裁可』
ギルベルト様の言ったとおりだった。
献上は誕生日の数日後。
清書は、その三日後。
裁可録から切り取られた三日分に書かれていたはずのことが、ここに残っている。
「審議の日、わたくしがこれを持って典礼院へ参ります。女官長の日誌は、王宮の記録として扱われます。耄碌した年寄りの記憶とは、呼ばせません」
イレーネ様は、ギルベルト様の言葉を知っているかのように言った。
レオン様が、話したのだろう。
夜会の翌週、ドレクセル公爵家の執事が、この日誌を譲ってほしいと言ってきたという。
女官長を退いた者に、王宮の記録は重すぎるでしょう、と。
イレーネ様は、玄関で一言だけ返して、扉を閉めたそうだ。
日誌は、売り物ではありません。
閣下がいちばん気にしているのはこの方だと、ユリウス殿下は言った。
その意味が、今ようやく分かる。
裁可録の頁は切り取れても、この書斎の二十年分は、切り取れない。
私は、深く頭を下げた。
顔を上げたとき、日誌の同じ頁の、いちばん下の行が目に入った。
同じ日の、夕刻の記録。
『同日、夕刻。ドレクセル公オスヴァルト、陛下に謁見。第百条の裁可を取り消されたしと奏上す。陛下、これを退けらる。公、退出の際に曰く、子どもの作文を王家の法とは呼ばぬ、と』




