9 3日目──山口県岩国市~広島県廿日市市
Side 巴
自転車を押しながら岩国のホテルを出た途端、鼻先をくすぐる匂いに巴は顔を上げた。振り返れば昨日泊まったホテルがあり、空は夏から秋へと移り変わる季節を示すように、薄い雲で白んでいる。
巴は予感がして、手早く忘れ物チェックを終えて出発した。ホテルは国道沿いのため、すぐに二号線での走行になる。走り始めて五分もしないうちに、右側に建物がない場所に差し掛かった。
ごくごく狭い範囲ではあるものの瀬戸内の海が見える。入江であって視界はまったく広くない。ただ昇る朝日に照らされて、きらきらと光る海の水面がサングラス越しでも目に眩しい。
景色は一瞬で、またすぐに右側は、店舗や住宅が立ち並ぶようになる。
地図上で海に近いルートを走っていても、実は案外海がちゃんと見える場所は少ない。景観が良いところには当たり前に店舗や集合住宅が立ち並び、道は大抵土地利用のために左右に造成余地を作って造られている。
今も実際、海側には工場が建っている。
だから巴は、胸いっぱいに大きく息を吸う。昨日は疲労と徐々に増した気配で意識できなかったが、今日は分かる。
この匂いは、気のせいでも思い違いでもなく、潮の匂いだ。
巴は海を傍らに、東へと道をひた走る。
※ ※ ※
国道二号線は、福岡県北九州市門司区から大阪府大阪市北区まで、おおむね山陽地域を走る道である。そのため巴の行程も自ずと二号線を走るものになる。
旅の行程三日目、この日巴は、旅路の大きな一歩を刻む。
「──え、え? 広島って、え?」
少し大きめの橋を過ぎたところ、慌てて自転車を停車させて歩道に寄り、巴は『広島県大竹市』の看板を前に戸惑う。
巴にとっての県境とは、自分で何度も越えた福岡県北九州市門司区と山口県下関市の県境、関門トンネル人道だ。地面にデカデカと書かれた福岡と山口のペイントが印象深い。
そんなつもりでいた巴を迎えたのは、橋を越えた先にあっさりと表示された広島の文字だ。
残念ながら観光地ならまだしも、国道にそんな情緒的な装飾はないのである。もっとも利用率の高いトラック運転手達に県境の主張など大した意味もない。出発地と目的地の間は、単なる途上に過ぎない。日本のインフラは、女子大生の感慨には付き合ってくれない。
複雑な気持ちになりつつも、巴は広島表示と自分の自転車をスマホで撮影した。その場で飛鳥へと送信する。
『とうとう山口越えたよ。県境の印はこれだけでした。思ったより地味!』
そんなわけで、巴はなんだかさらっと広島入りを果たした。
大きな一歩は時に、そうやってごく自然に訪れることがある。
トラックが巴を追い越す。
真横をトラックが通った瞬間、風が乱れてクロスバイクの車体が揺れる。全速力で走るが当然、車の走行速度──国道の上限速度である時速六十キロには到底達しない。巴の最高速度は時速十五キロがせいぜい、湊に引かれていた時で二十五キロいったかどうかだ。どうにか車の徐行よりは速い速度だが、日本の物流を支えるトラックは当たり前に追い抜いていく。
岩国から出発して以降、明らかに交通量が増えている。その理由は景色の違いからも分かる。昨日の山口市から岩国市の間に比べて、岩国市と広島市の間は都市だ。左右に建築物が途絶えない。
巴は昨日、自分が湊に言ったジョークを思い出した。『岩国はなんと山口』。いやここまで広島市と経済圏を繋げてるのでは、もはや広島県なんじゃないかと個人的感想として巴は思ってしまう。
なお巴は完全に勘違いしているが、実は二号線沿いの山口県岩国市と広島県大竹市の間には、山口県玖珂郡が挟まっている。ちなみに玖珂郡は郡だが、所属するのは和木町のみ。壮大な大人の事情の果てに存在している小さな地域を、巴はまったく意識せずに通過した。
山口県は本当に大きい。巴の認識の理由はひとえにそれである。東京、神奈川を合わせても足りず、千葉の半分ぐらいをも必要となる巨大な面積は、それ相応に一体感が薄いのだ。
湊の『それってどうなのよ……』という呆れが聞こえる──かもしれない。
閑話休題。
「っ……」
また巴の横を、今度は箱型のトラックが追い越す。
再びの風の乱れに、巴は入れかけていた力を抜いた。昨日の湊との走行を身体によみがえらせる。トラックの通過による風は、決して巴にとって向かい風ではない。乱れる風を怖く思うと身体が強張るが、実はその風は湊と同じ、引っ張っていってくれる風だ。
逆らわず、導かれる空気に乗る。向かい風や、空気の塊への衝突は先に行く車がしてくれる。巴はあくまで安全な距離は保ちながらも、その恩恵に預かるだけ。
サドルとの接触部分は、サイクルパンツを買っても痛みが蓄積している。身体も、二日続けの運動量にまいっている。マッサージをしても、意識していなかった筋肉が筋肉痛で痛む。三日目の今日、どうしたって疲労はたまっている。
けれど巴は、トラックの風に乗る方法を知っている。補給の仕方。道路状況への意識の向け方。
それから、走りさえすれば目的地に着けるという成功体験。
トラックが次から次へと巴を追い越していく。
巴は、あくまで自分のペースを保ち、ペダルを漕ぎ続けた。
※ ※ ※
高低差もなく、海沿いを快調に走らせて一時間。右手に見える大きな島陰に、巴はずっとワクワクしていた。それはもう、わき見運転にならない程度に、右手の視界が晴れて海が見える度に、島の入江をチェックしていた。
それから三十分。
「……宮島……見えない」
現在宮島口駅前。
正確に言えば『宮島』は始終見えている。なぜならば『宮島』とは島の名前なので。正式名称『厳島』の愛称が『宮島』だ。
だが巴が見たがっているのは『宮島』名物、厳島神社の海に立った鳥居のことだ。
小道にまで入り込んで走ったが、走行中一か所ちらっと赤いのが見えたかどうかなぁぐらいの場所が、一番見える場所だった。
厳島神社の鳥居は、実は島の北東の少し凹んだ入江にあるので、本土側からは見える場所が限られる。そういったところにはもれなくマンションや食事処が建っているので、二号線を走りながら見るのはほぼ不可能だ。
宮島行きの発着場前の通り、自転車を押しながらトボトボと巴は歩道を歩いていた。広島と言えばという厳島神社の鳥居は、今朝の曖昧な県境の残念感を覆すポイントになるはずだった。空振りに巴は肩を落とす。
──くぅ。
悲しくてお腹まで鳴いている。巴は誰かに聞かれてしまわなかったかと辺りを見回した。
その目に、店頭のガラス越しに、大きな機械が映る。ちょこまかとした動きに、目を奪われた。生地の充填、餡の注入、焼き上げ。出来上がるのは宮島名物──もみじ饅頭だ。
「わーっ」
巴は思わず声を上げた。周辺を確認して、自転車を花壇近くの電灯に立てかけて、チェーンをかける。
自動ドアの開閉も待てない勢いで中へと滑り込むと、甘い香りがする。
数分までとは打って変わったご機嫌顔で、巴は店から出た。購入したてのもみじ饅頭を、花壇の端に腰掛けて早速食べる。
甘い。そして温かい。生地が巴の知っているものより、ふんわりしっとりしている。
季節はまだ夏の気配が強く、もちろん今も巴は汗だくだ。それでも出来立ての温かさをおいしく感じるのだから、人間は不思議なものだ。
こし餡、抹茶餡、チョコ餡。買った三つを一瞬で平らげ、ボトルからスポーツ飲料を飲んで息をつく。
「……お茶が欲しい」
もみじ饅頭とスポーツ飲料は合わない。多分今後一生使うことのない教訓を胸に、巴は宮島の景色に諦めをつけた。
まだ広島は始まったばかり。次がある。
気合を入れ直し、巴は次の目的地、広島市への道のりにペダルを漕ぎ出した。




