10 3日目──愛媛県松山市
Side 飛鳥
目の前には蛇口、飛鳥の手には透明なプラスチックの小さなコップ。
飛鳥はコップをパイプの先に添えた。それから慎重に蛇口ハンドルを回す。
途端に先端から注がれる、オレンジ色の液体。
飛鳥は一人、感動に打ち震える。彼女はあくまで常識人なので、心中でのみ。
ご存じだろうか。小学校を思い起こさせるシンプルな蛇口から、みかんジュースが出る。愛媛名物──の都市伝説である。元は柑橘王国を象徴する、県民の冗談であったとか何とか。
飛鳥はそれを、今現実に体験している。観光客向けの、柑橘ジュースの飲み比べができる店舗だ。種類ごとに蛇口も別で、十個ほど並んでいる。もちろん有料で、ジュースの価格としては高めではあるが、ここ以外では行えない希少な体験に飛鳥の心は浮きたっている。
ただし表情には出ていない。店員さんに撮ってもらった記念写真にも、その片鱗はない。眼鏡をかけたその目元はいつだって涼やかだ。
けれど本当に、尾道で橋を渡ってから、飛鳥は我ながらおかしいと分析している。正確には、無為に普通電車に六時間近く揺られていた時からおかしかった。
とにかく──胸がドキドキしている。
尾道で降りたのに、実はもう一つ向こうの福山駅の方が、しまなみ海道へアクセスがいいと気づいた時。バスに乗ってのんびりとしまなみの景色を見ながら、自転車で渡ったしまなみ海道の思い出を辿った時。辿り着いた今治駅で、それで今からどうするのかと改めて考えた時。
せっかくならと足を伸ばした先が道後温泉だ。入湯後の休憩所でスマホから宿を取り、そつなく宿泊場所は確保した。
最初の乗り換え以外、問題らしい問題は起きていない。
いないが、飛鳥はずっと心がそわそわと落ち着かないのを感じている。
自分は橋の向こうに──知らない世界にいる。
その自覚が、飛鳥をほんの少し無鉄砲にさせている。帰省予定は明後日までずらした。
飛鳥は自由だ。
それにしても、松山城へ徒歩で登る判断は無謀だったかもしれない。
息を乱し、飛鳥は道の途中で脇に避けて息を整える。晩夏の日差しは思ったよりは強い。森の中のせいか、湿度も同時にあって、肌には汗が浮いている。
キャリーケースは、チェックイン後もホテルが預かってくれて今手元にはない。小さな鞄と身一つで、飛鳥は黒門口登城道の途中にいる。なぜならば『江戸時代の正規ルート』と書いていたので、飛鳥は先人に倣った。ロープウェイとリフトがあるのは知っていたが、城を味わうならばと本格派を気取った。後悔はしてないが、飲み物は確保して登るべきだったかもしれないと反省はしている。この道をあの格好でと、思い浮かべる着物、袴、足袋。あまり関係ないが髷と刀ももちろんセット。飛鳥の先人達への畏敬は深まった。
松山城の黒門口登城道は徒歩三十分程度のルートだ。ただし石段が多く、加えてつづら折りの道があり、進んでいるのに進まない、妙な停滞感がある。右に左にと曲がっていると、木陰で城も見えないため方角も分かりにくい。まさに攻城者へのトラップに、飛鳥は軽くかかっている。
それでも地道に進んでいれば、やがて石垣が見えてくる。飛鳥は小さく安堵の息を吐いた。眼鏡を外し、ハンカチで汗をぬぐう。
小ぶりな門を過ぎると、松山城の黒い櫓が上の方に現れた。そこから今度は大きめの門を過ぎ、城郭前の広場へ出る。
飛鳥は、松山城の姿を正面から見つめた。松山城は全国に十二しかない、当時から今まで現存している天守閣を有する城の一つだ。安定感のあるフォルムと漆喰の白の眩しさを、飛鳥は写真に収める。
そして満足すると、──あっさりと背を向ける。
飛鳥は売店と自動販売機を探した。
兵糧不足は負け戦一直線。何はなくとも水分補給をせねば、入城どころではない。彼岸に入った九月末とはいえ、油断してはいけない。飛鳥も巴に口酸っぱく注意した。熱中症は油断から来る。まさか自分がその危険性に遭遇するとは、飛鳥は思ってもみなかった。それこそが油断だ。
実際に夏の暑い日も黒門口登城道を通勤していた武士に、飛鳥は尊敬の念を深める。
そして帰りは、リフトかケーブルカーを利用することを迷いなく決めた。松山城への登城は徒歩四ルート、ケーブルカー、一人掛けのリフトとバラエティーに飛んでいる。
先人の業績に思いを馳せた後には、現代技術の恩恵に預かろうと、飛鳥は見つけた自販機のラインナップを眺めた。
スマホの振動は、売店前で伊予柑ソフトクリームを食べている時に来た。
なお、現在は松山城を見終わっての再訪だ。先程は自販機の飲料で済ませたが、気になっていた伊予柑ソフトクリームに結局釣られた形だ。
スマホの表示をつけると、巴からメッセージが入っている。
『お好み焼きがおいしい!』
同時に送られてきているのは、広島のお好み焼き写真。ソースの茶色を土台に、マヨネーズと青のりのコントラストが鮮やかだ。
飛鳥はスマホを操作して、昨日の写真一覧をスワイプする。自分が食べたお好み焼き写真を送りつける。こちらは少々の紅ショウガが乗っていて、より色どりがいい。
『お先に食べたの』
『飛鳥ちゃんも食べたんだ! 広島のお好み焼きは粉ものだけど、もう一枚いけそうな軽さが良いよね。大阪のは一枚だけで結構重い』
『どろ焼きも一枚は重いしね』
『泥焼き……?』
怯えるミニイラストが巴から入る。
飛鳥は目を瞬く。
『もしかして知らない?』
『泥で何を焼くの? 焼きそば?』
どうやら巴の発想は瓦そばに近づいたらしい。飛鳥は自分の居場所が井戸の中であったことを思い知った心地になる。
『そういえば家の近所の鉄板焼き屋さん以外で見たことないわ』
『泥でかまどを作るとか?』
今度はピザかナンに発想が引っ張られている。
『焼かれる物がドロみたいな?』
飛鳥にしては珍しく説明が抽象的になる。一般食と信じてきた食べ物の詳細を、飛鳥は意識したことがなかった。巴達に『チキンチキンごぼう』の詳細について教えてもらえなかったのも仕方ない。郷土料理に郷土の人間自体は無頓着なものだ。それはさながら、京都人が京都観光をしないように。
『もんじゃ?』
曖昧な解説はまったく伝わらない。飛鳥は頭を悩ませる。おそらく写真を見せても伝わらない。何せ見た目は焦がし過ぎたオムレツ?と言われる類いのものだ。
飛鳥は即断した。実食は百聞に勝る。
『お母さんに頼んでおく』
『飛鳥ちゃん家で粉もの!』
『ごめん、家でアレは無理』
ガーンっと悲しんでいる猫のイラストに、飛鳥は伝わらないもどかしさを抱く。
どろ焼き──飛鳥が住む地域に店舗がある、姫路発祥の鉄板屋チェーンの名物メニューだ。近郊の明石焼きの系譜を継いでいて、鉄板で焼いた生地はとろりと柔らかい。そのぐらい生地が緩いので、家庭で再現するにはかなりの技術が必要という予想は容易い。飛鳥は母にそれを要求するほど鬼にはなれない。加えて自分もできる気はしない。
なお、どろ焼きの一番スタンダードな食べ方は出汁につけて食べる形式で、粉ものでありながら優しい旨味でほっとする味わいの一品だ。ソースで食べる粉ものとは別の良さがある。
『家の近所にあるから、車出してもらう』
飛鳥も去年のうちに免許は取得しているが、保険に入っていないので実家の車は運転しづらい。
『楽しみにしてるね!』
はしゃいだメッセージの後に、画面を飛び跳ねる丸い鳥のミニイラストが届く。
瓦そばのお返しができそうだと、飛鳥は目を細めた。雲が晴れてきた空の青さが眩しい。
その手では溶けたソフトクリームが、コーンを湿らせていた。




