11 3日目──広島県広島市~広島県東広島市
Side 巴
広島市は巴も何度か訪れたことがある。一番大きな思い出は、小学校の修学旅行だ。原爆ドームと宮島、もみじ饅頭。記憶は曖昧で、今回の旅のために地図を見て、広島の中心部と宮島の距離が案外遠いことを初めて知った。修学旅行の移動はバスだったので、地理的な記憶は薄い。子供の頃の思い出など、誰しもそんなものだろう。
それでも、巴は二号線のルートを少し逸れ、原爆ドームが見える反対の歩道で自転車を降りた。子供の頃の思い出が曖昧になった今でも、資料館で泣きそうになった記憶は残っている。
崩れ落ちる間際で時を止めたようなその姿に、巴は静かに手を合わせた。
人口百万越え、中国、四国地方最大の都市、広島市。その中心地で、巴は都会の洗礼にあっていた。
先を行く自動車のブレーキランプが赤く灯る。ギアを上げるためにレバーに触れていた手は、果たせずに力が抜ける。目の前で赤に変わった信号に、巴はやるせない気持ちでサドルから前に腰を下ろした。
さっきから、まったくスピードが出せていない。
岩国市から広島市の道すがらでも気配はあったが、交通量、周辺人口が多いほどに信号は数を増す。市内に入ってから明らかに信号待ちの時間が増え、漕ぎだしても速度が乗らない。軽いギアでの走行に、足ばかり空回る。
走れないストレスがこんなに強いとは、巴は考えたこともなかった。お尻の痛みが弱いことも、この状況では喜べそうもない。
道路の真ん中の付近を、アイボリーとカーキのツートンカラーの路面電車が横切っていく。
先程飛鳥から受け取った愛媛県松山市の市電は、濃淡のある二色のオレンジだった。柑橘類を思わせるカラーは、巴は地元山口の名物、黄色にも橙色にも見える夏みかん色のガードレールを思い出させる。
信号が青に変わる。広島市電の色にも何か意味があるのかと、心ここにあらずで踏み出した足はペダルをゆっくりと回す。交差点の半ばに差し掛かる。
──タイヤがずるりと滑る感覚に、ひゅっと巴は息を呑んだ。
想定外の方向へクロスバイクの車体が傾く。慌ててハンドルを強く握り、方向を修正する。ペダルを強く踏み込み、何とか体勢を戻した。ドクドクと心臓が鳴る。嫌な汗が一気に噴き出して、巴は風を一時的に冷たくさえ思う。
市電のために敷かれたレールは埋め込み型で、細い溝として道路の中央を走っている。ゆるやかなカーブを描くその溝に、低速で入ったクロスバイクのタイヤが引き寄せられたのだ。横を走っていた車から見れば少し走行が乱れた程度だったが、巴は改めて都市部の恐怖を思い知った。
注意散漫、それこそが都会での一番の敵だ。
※ ※ ※
瀬戸内の海は、穏やかなことが多い。日本海や太平洋に比べて、閉じた地形からくる特性だ。そのため、とりわけ小さな島の多い広島の海は、牡蠣や海苔、魚の養殖業が盛んな地域だ。
巴は安芸津の海を、ベンチに座って眺めていた。島影は近く、地理にくわしくない巴には陸続きの入江と言われても区別がつかない。あちこちに何かの養殖棚があって、小さめの船がひっきりなしに海上を行き来している。
心洗われるような、のんびりとした風景だ。
それが余計に、──巴の腰を重くする。
三四号線を南東に走ってきた巴の心は、今軽く折れている。
元々の予定は広島を抜けても、安定の二号線で東へ向かうはずだった。それを変更したのは、広島市内のストレスのせいだ。広島市から三原市へ続く二号線は峠道だ。巴は思いっきり飛ばしたい気分になっていた。そこに負荷ばかり高い登り坂は耐えがたい。だから巴はルートを三四号線に変え、海側を少しでも走るルートにした。
それが罠だった。
三四号線は普通に坂だ。海に向かっているからといって平坦や下り坂であるほど、地形とは単純ではない。完全なるリサーチ不足だ。何とか海へと辿りつきはしたものの、巴は気力に加えて体力まで削り取られた。
ベンチに下ろしてしまった巴の腰は、今限りなく重い。
店舗の中で買ったじゃぼんサイダーを、炭酸が抜けるのも構わずちびちびと飲み続けている。
ちなみ『じゃぼん』とは安芸津町でしか栽培されていない、希少な柑橘類である。元は九州地方のザボンだという説もある。
巴はもちろんその希少性は特に認識していない。香りが物珍しくて爽やかで、おいしいなぁという感想である。
「はぁ? どこやったんじゃ。台紙なかったら明日の尾道、意味なかろうがの」
「いやいや、ナベさん落ち着いて。ほらムラさんよく探したらきっとあるよ」
「確かに入れとったんじゃがなぁ。……ああ! そうじゃ、なくしたらいけんけぇこっちのポケットに……ほれ見い、あった──あっ」
「あッ」
「あー!!」
耳に入った音の違いをまるで合唱みたいだと思いながら、巴は反射的に飛んできた紙を掴んでいた。
「ナイス、嬢ちゃん!」
「悪いね、お嬢さん」
「わしらやったら今のは無理な反射神経やったなぁ」
無料配布の地図のような一枚のそれは、よく見るとスタンプラリーの台紙だ。自転車向けの、尾道がコースに入っているものだ。
わらわらと寄ってきた人たちに、巴は顔を振り向かせる。
目線がちょうど、サイクルジャージに包まれた丸々としたお腹を捉えた。まるーいと心の中で思ってから、視線を上げる。
「助かった助かった。あってもなくしたら意味なかろうがの」
「ムラさん握力弱ってきた?」
「握力に限らず留まるところを知らん衰えじゃー」
よく日焼けした肌の、三人の中年男性が、巴が座るベンチの傍らに立っていた。
三人組──田辺謙、中倉健、井村けんは、どこか期待する眼差しで巴に急に名乗った。
巴は人見知りで緊張した心地で、とりあえず小首を傾けた。
「通じんかぁ、鉄板ネタじゃがのぉ」
「若い人にはさすがにね」
「じぇねれーしょんぎゃっぷ、悲しいのぉ」
巴にはまったく何のことか分からない。
「みなさん、ケンさんですね?」
「あぁうん、そうじゃなぁ」
なぜだか三人組は残念そうだ。
三人は休みを合わせてスタンプラリーのため、今日広島から尾道に向かっている途中だと巴に説明した。風に飛ばされていた台紙はその目的のものだ。
「嬢ちゃんはどこ行くんけ?」
「こらこら、若いお嬢さんに不躾に聞くんじゃない。答えなくていいからね」
「せくはらじゃぞ、ナベぇ」
あっと、巴は湊の教えを思い出した。
『いい? 女の子一人旅っていうのはそれなりに危険があるわ。同じサイクリストでも、不埒者もいることはいる。ちゃんと注意なさい。──ただお腹が丸い中年は、普段は乗らない癖に時間ができたら自転車に乗ろうとする程度に健全な思考の持ち主だから、大抵大丈夫。話しかけてくるのはただの先輩面したがりか、おじさん特有の世話焼き。鬱陶しくなければ相手したらいいわ』
巴は三人のお腹を見た。全員お腹が出ている。そして顔に目線を戻した。日焼けした肌に皺が深い。これだ!と、巴はなった。
「三原まで行きます!」
予習していた問題がテストで出た心地だ。人見知りは吹き飛んだ。
「尾道ちゃうんか?」
「明日は三原から岡山まで」
「えっ、随分と頑張るね。もしかして中国地方横断とか?」
「そうです!」
「なら山口からかい。若さじゃのぉ」
赤いヘルメットの、一際身体に丸みのある井村けんが言うと、横の二人もうんうんと深くうなずいた。
「なら」
白いヘルメットの、頬はシャープだがお腹は少し出ている中倉健が、両脇の二人と目くばせする。
「──乗ってくかい、わしらのトレイン」
青いヘルメットの、一番身体が大きいがやっぱりお腹が丸い田辺謙が、白い歯を輝かせて巴に言った。




