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12 3日目──広島県東広島市~広島県三原市

  Side 巴


「きばれいっ、ナベ! 若い頃のおめぇはもっと輝いとったじゃろぉ!」

「どっせーいッ!」

「バカバカバカっ、若い子いるからって格好つけない!」

 海を横目に一八五号線を走ってしばらく、巴はずっと笑いっぱなしだ。速度が鈍る度に激励なのか、からかいなのか、判別のつかない声が飛ぶ。

 車列はくるくると先頭を変えて入れ替わる。ただ巴は、三人の好意で最後尾をずっと走っている。

「もう無理じゃぁ」

「ムラはさっきから早いんじゃ! おめぇこそもうちょい気張らんかい!」

 井村と田辺のやりとりは、まるで子供のようだ。

 笑っていると、車が少ない区間で中倉がスピードを緩めて巴の横につけた。

「ごめんね、僕らうるさくて。次のコンビニで休憩入れようと思ってるけどまだいけるかい? あと三十分くらい」

「いけます!」

 風音にかき消されないよう、巴は元気よく答えた。

 もちろん身体は疲れている。遅れた行程の分、日暮れもどんどん近づいている。

 けれど何より今、巴は楽しかった。一八五号線は海沿いで交通量も少なく、三人組のお陰もあってずっと快調に飛ばせている。

 ペダルを踏み込める。重いギアの負荷が、不思議と心地いい。

「──やっぱり、私も先頭やります!」

 流れる汗を感じながら、巴は笑顔で宣言した。

「お。じゃ、頑張ってもらおっか」

「よしっ。不甲斐ないムラの分を埋めたってくれ!」

「え。わし? わしのせいか? ──漢イムラっ、まだまだいけるわぁ!」

 当然井村がバテるまでは一瞬だった。

 その後を巴は笑って引き継いだ。先頭になると、やはりペダルの重さを感じる。空気の層は思ったよりも抵抗を生む。

「行ったれ、嬢ちゃん!」

「ペースの遅い速いはこっちで見てるから、とりあえず好きに走ってごらん」

「お嬢ちゃん、わいの分まで頼んだぁ」

「はい!」

 そのつらさに、巴は心躍らせて挑みかかった。

 傾きかけた夕日が、瀬戸内海の穏やかな水面を茜色に染めていく。



「何で……いつも……クラやんだけしれっとしとるんじゃ……」

「ナベさんとムラさんが無駄に叫び合ってるからだろうね」

「ぜぇぜぇ……ゲホッゴホっ……!」

 九月下旬の空は、思いがけずあっさりと日を落とす。三原から見る瀬戸内は、島影で暗く、ほとんど何も見えない。

 走ってきた道側を振り返れば、建物の向こうの空に、赤みのあるグラデーションは一層だけだ。

「大丈夫、ですか? 私のせいで……今日の予定」

 ラストスパートの余韻のある呼吸を落ち着け、巴はようやく口を開いた。

 なぜかまるで自分達もラストスパートのように加速してくれた田辺と井村は、コンビニの横手でまだ力尽きて座っている。彼ら三人組の目的地は今日、尾道だ。日も暮れたが、まだ三原から十五キロある。

 一人立ったままの中倉が、飲んでいたボトルから口を離した。

「大丈夫、大丈夫。いつも想定より遅れて、焦って無口になってからが本番みたいなとこあるから」

「慣れてますねぇ」

「こんなんで君の歳の倍ぐらい一緒にやってきてるからねぇ」

 へらへらと笑って応える中倉に、巴も笑顔になる。

 走行中、中倉は司令塔だった。地図の把握、速度の調整、各人の体力への配慮。そういう役回りであれば自然と口やかましくなりそうなものの、中倉はその場その場の最善を気に留めるだけで予定にはこだわらない。そんな中倉の管理下で、田辺は有り余る体力を存分に発揮し、井村は何だかんだ泣き言を口にしつつも走り切る。

「自転車なんてね、走ってりゃそのうち着くんだから、途中を楽しんだもの勝ちなんだよ」

 茶目っ気たっぷり言う中倉に、巴は思わず声を出して笑ってしまう。


 広島から三原へ、当初巴が予定していた道は二号線だった。ほとんどまっすぐ、山を越えて辿り着く道だ。その計画を変え、三四号線を選択した。迂回し、海沿いに逸れる道だ。

 巴はどこかそれを、──正しい道から逃げた気がしていた。

 二号線を行けば東に向かえる。けれど広島市でのストレスから、二号線で予測される坂道に向かう気力がなかった。海沿いの平らな道を走りたくなった。距離が伸びる覚悟はしていた。なのに思ったより三四号線にも坂があって、登りながら自問自答してしまった。

 嫌なものから、また目を逸らしたのではないかと。

 あの安芸津の海で、巴はどこまでも弱い自分の意思を、自覚してしまった。


 そんな中、三人組に出会った。


「私もっ楽しかったです!」

 巴は目尻に涙を滲ませて、頬を緩めた。

「じゃあおじさんたちは満足だよ。ねぇ、ナベさん、ムラさん」

「おう!」

「ん? なんか分からんがそうじゃなー」

 漕いでさえいれば、自転車は進む。

 大事なのは方向を間違わないこと。止まらないこと。


 それから──できれば楽しむこと。



  ※ ※ ※



「──っていうおじさん達がいてね」

『ちょっと待って』

 鋭く飛んだ制止の声に、巴は動きを止めた。

『……ごめん。行動ではなく、話を』

 追加された言葉に従って、巴は食事を再開した。

 場所は三原駅近くのホテル、今日の宿泊部屋だ。今日の巴の夕食はコンビニのパスタだ。部屋に電子レンジが完備されていたので、温めたばかりのカルボナーラはソースがとろりと柔らかい。

 巴がプラスチックの安いお皿から顔を上げると、通話が繋がった先で飛鳥が考える素振りを見せている。自分の言葉の何がその状況に結びついているのか、巴はよくわからずに、ただ咀嚼を続ける。

『ケン……』

「え、うん、みなさんケンさんだったけど」

『タナベケン、ナカクラケン、イムラケン』

「うん」

『渡辺謙、高倉健、志村けん』

「ん? あ。あー!」

 ここに来て、ようやく巴は三人組が名乗った時の、期待の正体に気付いた。二十世紀の名優、平成のお笑いスター、今なお健在な世界的俳優。人生の三分の一は令和な女子大生が、名前の惜しさに気づくにはハードルが少し高い。

「気づいてあげたかった……!」

『半分クイズね』

 問題が出題されたことにすら気づいていなかった巴は悔しい。取り返せない失態に、肩を落とす。

『それで?』

「んっとね、今日広島から三原のルートを予定と変えちゃったんだけど──」

 けれど話すうちに、巴は笑顔を取り戻す。一つの笑いを逃したのは事実だが、それがなくても三人組との同行は巴にとって楽しい一幕だった。

 飛鳥は、言葉少なに相槌を繰り返す。

「──っていう感じで。すごく助かった」

 話し終える頃には、巴の食事も終わっていた。

 スマホの小さな画面の向こう、飛鳥は眼鏡の奥の瞳を、少し細めていた。

『無鉄砲な計画変更はどうかと思う』

「う」

『でも楽しかったのなら良かった』

「……うん、すっっごく楽しかった!」

『ただし次からはちゃんと調べて考えること。いつだって親切な人がいるわけじゃないんだから』

「はいぃ」

 飛鳥はどこまでも厳しい。

「そういう飛鳥ちゃんは今どこにいるの?」

 飛鳥が、スマホがフリーズしたのかと思うほどにぴきっと動きを止める。

 あれっと、巴は首を傾げた。

 飛鳥が俯いて、眼鏡のブリッジに指を当てる。

『……琴平』

「こんぴら……──香川だ!? 今日も浴衣だと思ったら!」

 愛媛を観光していたかと思えば、今度は香川の観光地だ。

『温泉の方でも、案外安く泊まれるのね』

「飛鳥ちゃんも無鉄砲な計画変更だ!」

『これはただの無計画』

「もっと良くない気がするよ!?」

 巴は勢い込んで言う。

 沈黙が、急に落ちた。

 飛鳥が、眼鏡から指を離して顔を上げる。その眉尻が低い。

『駄目、かしら』

 小さな小さな呟きに、巴はふわっと感情が湧き上がるのを感じた。

「駄目じゃない!」

 返答の声は思ったより大きくなった。もう音を発した後だというのに、巴は咄嗟に口を手で押さえた。横向いて部屋のドアを見る。しばらく待っても、両側の部屋からの壁ドンも、ドア外の来訪者もない。ほっとして、巴は卓上のスマホ画面に目を戻す。

 飛鳥は、いつも通り表情薄く、そこにいる。

 けれど巴には、飛鳥の不安が見えた。

「ああしなきゃこうしなきゃっていうのをなしで気ままに楽しむってことだよね。自由っていう、一番の贅沢」

『……うん』

「いいね。合流したら、いっぱい話聞かせてね」

『そのためには今日もしっかり休んで、兵庫まで走り切らないと』

「うん」

 お開きの流れに、巴はスマホに手を伸ばす。

「おやすみ、飛鳥ちゃん」

『おやすみ。ああ、そう。──明日、岡山で同じホテルに泊まる予定だから』

「へ……? ……──すっごく計画的じゃん!?」

 巴が叫んだ頃には、相手側から通話が切れていた。


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