表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/18

13 4日目──広島県三原市~岡山県笠岡市

 三原の朝は、前の三日間とは気分が違った。いつもの、ホテルを出た瞬間の明るさが目に入らず、巴は顔を上げた。雲が厚い。太陽はもう充分上がっている時間だが、サングラス越しに探したその姿は、雲を白くして存在を主張する程度だ。暑さが弱い。

 今日の予定、三原から岡山への距離は約百キロ。ほとんど地形の起伏はなく、登り坂も特にない。

 三日間の疲労は、巴の体に確実に蓄積している。特に昨日三人組とのトレイン走行が楽しすぎて、実力以上の走り方をしてしまったようだ。ここまで何とかマッサージで抑えていた筋肉痛が起きていた。ただ、巴が不安視しているのはそこではない。

 問題は、今日の天気だ。予報では下り坂となっていた。夕方近くになると雨の確率が高い。五日間すべて快晴とは、やはりなかなかいかない。できるだけ日が暮れないうちに走りきれるよう出発を早めたが、空の具合は巴が思っていた以上に悪い。レインウェアなどの雨具は備えている。とはいえ、できることなら雨に降られたくはない。

 なら、と。

 巴は落ち着いて出発準備を指差し確認する。忘れ物はなし。自転車の不調もなし。ボトルも満タン。地図の把握も問題ない。おなじみの二号線は、この付近は三原バイパスといって、自転車で通行できない区間だ。そのため、出発してすぐの尾道付近は沿岸部を、旧二号線と呼ばれる道を行く。その予習はばっちりだ。

 最後に、手袋の手首部分をぎゅっと引き、指のまたのゆるみを直す。

 不安はあっても、中止にする気はない。なら、今できることをするしかない。

 少しでも先に進む。

 そうして、巴は四日目の朝を漕ぎだした。



  ※ ※ ※



 三原から尾道までは、十キロあるというのに、巴の体感ではあっという間だった。昨日お世話になった三人組もベテランなので、この分ならあの後あっさりと走行を終えただろうと巴は安堵する。

 それもこれも、景色のせいだ。

 重い雲が垂れこめていて『映え』はしないが、連なるしまなみの島々と間に見える橋の存在は、巴の記憶を刺激する。


 しまなみ海道への旅は、巴のちょっとした出来心を発端に計画が始まった。三年生の始まりから就職と卒論をすでに見越して計画を立てていた飛鳥。対して巴は、必修科目が少し落ち着いてできた時間をもっと遊びに費やしたかった。飛鳥をどうにかこうにか堕落させようと一時画策し、その結果その心の琴線に触れたのが、海、島、橋のしまなみ海道の旅だった。

 それまで巴のプレゼンテーションを無情に断ってきた飛鳥が、提案を拍子抜けするほどあっさりと了承した。そこから行動に移るのは早かった。その場で宿の空き具合を確認し、最速で日取りを逆提案し、電動自転車の借り先も調べた。巴が呆気に取られているうちに日程は確定し、宿は予約された。

 一方の巴は、驚いて嬉しくて数日ほわほわ過ごした。ほわほわのまま、まともに何も考えていなかった。

 数日してようやく考え出した。どうせなら自分の自転車で行きたい。でもどうやって運ぶんだろう。追加料金かな、と呑気に構えていた。輪行袋と解体の必要性を、日程が迫ってから知った。自転車の鉄道移動は基本、『輪行』という手段だ。タイヤなどを解体して袋に収める必要がある。巴は慌てて輪行袋を買いに行った。動画を見ながら、解体と組み立てを手を汚しながら予行練習した。

 飛鳥にとっては全てが計画通りの、巴にとってはドタバタの末の、しまなみ海道はちゃんと楽しい思い出になった。電動クロスバイクで颯爽と走る飛鳥。実家の帰省にはない細かい上がり下がりに翻弄される巴。空と海の青。島の緑を繋ぐ橋。途中で食べた尾道イチジクのアイスクリーム。最後は営業時間ぎりぎりに飛鳥のEバイクを返却する一幕もあったが、初心者二人でしまなみの上級者コースに挑むという無謀は達成された。


 巴はふと気づいた。

 糸崎の駅を越えた後、大きな左カーブを曲がりながら広がった、しまなみの景色。走行する道路右手に海が広がるポイントで、左手の線路を黄色の列車が通過していった。

 もしかして、一昨日飛鳥も同じものを見たのかもしれない。

 風景の中には、小さくはあるがしまなみ海道の一つ目の橋も見えていた。

 飛鳥が、その向こうに行きたいと思った気持ちが、巴は何となく分かった。



  ※ ※ ※



 尾道を越えた先、バイパスが終わった後の二号線は、再び自転車が走行可能な道路になる。片側二車線の道路は交通量も多く、巴は前傾になって追い抜いていく自動車の風に乗る。

 けれどふと進行方向上空、岡山市への距離を示す青い案内標識の横にそれを見つけ、巴は体勢を起こした。

「あっ……あッ……あー!」

 巴は嘆いた。

 片側二車線の道路の流れは速く、『岡山県』、『笠岡市』の看板は無情に流れていく。 歩道はあるもののガードレールが固く領域を分けており、避けて戻ることも叶わない。

 今一瞬で流れ去ったのが、広島と岡山の県境だ。山口、広島の県境でも思い知らされたが、やはり物流、交通の大動脈たる二号線は巴の情緒に寄り沿うことがない。

 しまなみ街道の県境、『広島県』と『愛媛県』と書かれたペイントに、はしゃいだ記憶が思い起こされて巴は余計に悲しい。

 もう悲しみを力に変えてペダルを踏み込むしかない。

 が。

 巴は少し登り気味な道の先、ガードレールのないところで停車した。ソーラーパネルの並ぶ横の歩道でスマホをいじる。検討するのは本日の昼食場所だ。悲しみとは空腹を余計に感じさせるものなのである。悲しまなくてもお腹は減るが。検索を駆使して、巴は本日の店を手早く厳選した。巴は素直、もしくは単純なので、知らない場所ではレビューにあっさり釣られる。

 巴が選んだのは笠岡駅を過ぎた辺り、二号線から路地に入ってすぐのラーメン屋だった。自転車は看板の支柱に停めさせてもらい、中に入る。扉をくぐった瞬間、冷房の効いた涼しさと、食欲をそそる匂いが巴を包んだ。たまらず、ほっと息をつく。冷房の向きを考えて汗臭さが行かないように、巴は人を避けて入り口近くのカウンターに座る。

 注文からほどなく提供されたのは、一杯の上品なラーメンだった。綺麗に揃えて盛られている中細麺が、どんぶりに満ちた濃い茶色のスープの下に透けている。トッピングは斜め切りのネギ、メンマ、それから薄く切られた鶏。この鶏は実は普通の鶏肉ではない。卵を産み終わった後の親鳥──ひねどりのチャーシューだ。

 巴が訪れたのは、笠岡ラーメンの店だった。

 笠岡ラーメンは、笠岡市の名物である。養鶏が盛んであった笠岡で生まれたラーメンは、地元食材の鶏を活用した一杯だ。スープは鶏ガラベース、前述した通りチャーシューも身が色づくほどの煮鶏。その味わいは他のラーメンにはないあっさりとしたもので、人によっては朝食に食べてもいいとすら言うほどである。

 一枚だけスマホで撮影した後、巴はストレート麺を躊躇いなく豪快にすする。巴にとってはおいしいが正義。つまりおいしさを損ねるなら、女子らしさなど関係ない。親鳥のチャーシューはコリコリしていて、馴染みのない食感を楽しむ。スープを最後の一滴まで飲み干し、巴は完食した。

 おいしい。巴の意識は今それ一色になっている。お腹が温かく、満ち足りていて、何より幸せである。

 県境の簡素さに抱いた悲しみなど、ラーメン一杯のおいしさで吹き飛ぶものだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ