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14 4日目──金刀比羅宮

  Side 飛鳥


 飛鳥は長く苦しい道の半ばにいた。上を見ても階段、下を見ても階段。

 

 そう、ここは香川県仲多度郡琴平町──金刀比羅宮。通称『こんぴらさん』。本宮まで七八五段の堂々たる階段が続く、香川一の観光地だ。前日の松山城とは登る標高が比較にならない。参道はきちんと整備されていて、左右に土産物屋や飲食店の建物が続いている。

 飛鳥は階段の脇に避け、昨日の反省からちゃんと購入していたペットボトルを取り出した。そうしている間も、平日にも関わらず参拝者が目の前で階段を登っていく。ある人は足取りしっかりと軽快に、ある人は無料で貸し出されている杖をついてゆっくりと。その歩調はやはり年齢の傾向があるが、それでも老若男女の区別なく元気な人はいて、年配の女性がはつらつと飛鳥の視界を過ぎていく。

 こくりと、喉を鳴らして冷えた緑茶で喉を潤す。今日の天気は曇りがちで、前日より汗もかかない。それでも熱中症の予防を考え、飛鳥は定期的に休憩を挟んだ。多少気温が低かったり、曇り空だったりで油断した時こそ、水分補給は大切だと知識として知っている。

 そうしていると、飛鳥は巴の運動量が今更ながらに心配になる。一日で百キロの自転車移動がどういうものか、飛鳥は知らない。インターネットやチャットAIから、できる限りのサポートと助言を巴にしたつもりでも、現実は想定を越える可能性がある。アクシデントなどもっともなものだ。


『やればいい』

 飛鳥は、人生でたくさん、そう思って、そう言ってきた。

 やらなければいけないこと。やった方がいいこと。人は大体それをわかっているのに、なぜかやらない。飛鳥にはそれが不思議だ。やらなければならないことを後回しにしていいことなどないし、やった方がいいと明確にわかっているのならそれはほとんどやるべきことと同義だ。なのにやらない人間がいる。

 そういう人間は飛鳥の言葉に、不機嫌な顔をしたり、曖昧に笑ったりする。

 そして、飛鳥を避け始める。

 子供の飛鳥は、それを悲しいとは思わなかった。

 ただ、いつまでも疑問を残し続けてきた。

 たくさんの人がなぜ、口ばかりで理想を語って行動しないのか。


 ペットボトルの蓋を締めていると、わぁんと響いた子供の声に飛鳥は顔を上げた。鞄にペットボトルを仕舞いながら、階段の中央にいる一団を観察する。

 大きなリュックを背負った、半袖の夫婦。その足元に小柄な影が二つ。未就学児ぐらいの男の子と、それよりは少し大きい女の子。

 飛鳥の実家の近隣である姫路城辺りでも見掛ける、海外からの観光客だ。

 日本だと山登りかと思うような荷物で、よくあれでこの階段を上る気になるものだと、飛鳥は感心する。

 耳に届いた泣き声は、男の子が発したものだったようだ。口早に、母親に何かを訴えている。

 飛鳥は避けていた端から離れ、その傍らに近づく。

「Buscas un baño?」

 口にしたそれが通じるか、飛鳥は自信があるわけではなかった。通じれば御の字で、通じなければまた別の手段がある。飛鳥の行動はいつもこのぐらいだ。人は飛鳥を計画的な人間と捉えるが、飛鳥自身は自分の行動に確信などない。

 できることをしているだけ。

「Sí.」

 母親が飛鳥に向けた顔は、少し強張っている。

 飛鳥はスマホを取り出した。地図アプリを立ち上げて、『トイレ』と入力する。

 検索結果を確認し、飛鳥は周りの店に目を向けた。

 同じことを、おそらくこの家族もしてはいたのだろう。ただ分かりやすい参拝者用の公衆トイレは階段下か、登り切った上の方にある。ちょうど真ん中辺りで、どうにか登らせるか、それとも一度降りるか、逡巡していたのだろう。

 ただ、検索結果のトイレはもう一つある。

 土産物屋の横、目立たない喫茶スペースの入り口を、飛鳥は開けた。

「すみません」

 カウンターの向こうで作業していた白髪の女性が、顔を上げる。

「海外の方がトイレを探してらして、こちらに案内してもいいですか?」

「ええよええよ、使いまいよ」

「ありがとうございます」

 ぺこりと会釈してから、飛鳥は四人家族の元へと戻った。

「Hay un baño.」

 飛鳥はそう言って、今出てきた扉を指す。

「トイレ、奥ね」

 店の中へと誘導すると、店主らしき女性は言葉と共に身振り手振りでトイレを示した。男の子と母親は駆け込んでいく。

「若い子は英語できてえらいなぁ」

 残っている父親の感謝に、どういたしましてと答えたのが聞かれていたらしいと、飛鳥は目を瞬く。

「今のはスペイン語です」

「あらま」

 飛鳥はカウンターの椅子に腰かけた。

「かき氷のブルーハワイ、いただけますか?」

「トイレ貸したことなら、気にせんでな」

「夏の終わりのかき氷を、食べたくなったので」

「まぁ。ほんなら、かしこまりました」

 店主の女性は、そう言って品よく笑ってオーダーを受けた。


「Gracias!」

 ちぎれそうなほどぶんぶんと手を振る男の子に、飛鳥は眼鏡の奥で目尻を緩めた。

「しばらくトイレありますって張り紙もしとったんやけどなぁ。変な人らもおっておおっぴらにせんよぉになったんよ」

「地元の人相手ならともかく、観光客相手なら当然だと思います」

 善意が善意で返されるとは限らない世の中だ。仕方ないと飛鳥も納得する。

 希望と現実は、折り合うものだとは限らない。

 やればいいのに、やらない。それもそういうことなのだろうと、今の飛鳥は理解している。心理的、環境的抵抗が、意思を、行動を阻害する。理想を夢見て、徐々に夢にも見なくなって、諦める。

 飛鳥はそれを理解した。

 けれど今も、納得はしていない。今だってやればいいのにと思っている。

 だからこそ。

 かき氷機の音が止んだ。運ばれてくるものに目を向けて、──飛鳥は小さく口を開いて固まる。かき氷が、器から溢れんばかりに盛られている。鮮やかな空色が目に眩しい。

「お待ちどうさま」

 目の前に置かれて、どうしようかと考えて、とりあえず飛鳥はスマホで写真を撮った。あとで巴に、『今年最後のかき氷』として送ろうとだけ決めて、スプーンを持つ。

「お嬢さんは大学生?」

「はい」

「こんぴらさんはもう?」

「まだ行きです」

「きっとこんぴらさんも一善見守ってはるから、ゆっくりしぃ思ってはるよ」

「このあと、頑張り、ます」

 キーンと走った頭の痛みに、飛鳥は耐えながら答える。

 ふふっと上品に笑った老婦人は、定位置らしいカウンター内の椅子に腰かけた。入口のガラス扉越しに、坂を上る人々を眺め始める。お陰で飛鳥は逃れられない頭痛との戦いに集中することができた。

 エーゲ海のような美しい青の水溜りがガラス器の内側に残ったところで、飛鳥は口を開いた。

「ホットコーヒーを一つお願いします」

 夏の終わりのかき氷は、思った以上に体温を冷やした。

「あらまぁ。ただの緑茶で良かったら、お接待で出すよ」

 『お接待』は四国特有の文化だ。来訪したお遍路さんを、共に功徳を積む精神でもてなすことを、この地ではお接待という。

 笑って言う老婦人に、飛鳥は顔を俯ける。

「……ご厚意に甘えてよければ」

「はいはい」

 老婦人は軽やかに店に奥に引っ込んでいった。

 そして、今飛鳥の前には緑茶とどう考えてもおみやげ用の縦長な饅頭──こんぴら名物、灸まんが置かれている。フォルムがこんもりと丸い。

「あの」

「一善のお返し、お返し」

 ふふと零される笑い声は軽やかな音だ。老婦人は口元を閉じたまま、品よく微笑む。

「長いことやってるけど、ここ数年は海外の人増えてねぇ。なかなか声もかけづらいし、一善もしにくなったんよ。やから、お嬢さんみたいな人がいてくれると助かるわなぁ」

「……スペイン語は、第二外国語で習ったので」

「知識があるのと、行動するんは別の話やからね。お嬢さんの行動への、街の人間としての感謝。あの坊や、おもらししてたらきっとせっかくのこんぴらさん、ええ思い出にならんかったきんねぇ」

 湯飲みから、白く湯気が立ち上る。私物なのか、縁の部分に小さなヒビが入っていた。包装のまま置かれた饅頭を手に取る。薄いビニールを剥いて一口かじると、白あんのあっさりとした甘味が口に広がる。湯飲みから、お茶を音も立てずに啜る。

 ほっと、飛鳥は息をついた。自然と体の力が抜けていた。


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