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15 4日目──岡山県倉敷市

  Side 巴


 嫌な重さを、感じていた。


 岡山県の走行は最初順調だった。岡山県倉敷市に入り、巴は二号線の玉島バイパスは選ばなかった。バイパスとは渋滞緩和用に作られた迂回路のことだ。大抵の場合信号がなかったり、道路状態が良かったり、旧道より車が速く走りやすい構造になっている。自転車が走れるかどうかはまちまちで、玉島バイパスは巴の調査では自転車走行可能になっていた。ただ走れることと、快適に走れることは別で、見つけた経験者のコメントを参考に巴は避けることにした。いくら多少慣れたとはいえ、最高速度が段違いな車がすぐ真横を走っている状況は巴は怖いし、車側からも危ない。その結果の側道、四二九号線の選択だ。


 その四二九号線を走るうちに、巴は違和感を覚えた。踏み込むペダルに対して、どこか抵抗が強いような、漕ぐ足に負荷が大きいような。

 初めは気のせいかと、次に分かりにくいが坂なのかと、──そうして景色が街中に変わったところで、巴はその可能性から目が逸らせなくなった。

 パンク。

 自転車の、一番基本的なアクシデント。

 地面を固さがそのまま拾うような感覚に、巴は自転車を停止させた。

 コンビニに自転車を停め、補給のドリンクや栄養ゼリーを買いに入る。

「あ、あのっ、ちょっとパンクしちゃって、駐車場の端っこ借りて作業してもいいですかっ?」

 声は上ずったが、店員から快く了承が返ってきて、巴は強張る顔に笑みを浮かべた。

 三角形の駐車スペースにすらならない場所が端にちょうどよくあって、巴はそこに陣取る。

 パンクはあくまで想定されるアクシデントだ。現実逃避で対応は遅れたが、やるべきことは決まっている。

 上空では、朝から曇りがちだった空が、更に重さを増している。

 一度空を仰いだ後、巴は覚悟を決め、サドルバッグからパンク修理キットを取り出す。

 パンク修理自身は、巴も何度かしたことがある。ただそれは自宅付近で、出先での作業は初めてだ。

 まずは入れておいた薄手のゴム手袋と軍手を二重に装着する。これ一つで作業への思い切りが変わる。パンクしているのは後輪だった。一回転させるが、あからさまに刺さっているものは見当たらない。ブレーキを離してレバーを開き、ナットを緩めると案外簡単にホイールは外れる。それからへら状の工具を使ってタイヤが収まっているリムの片側に隙間を作り、チューブを抜き取る。

 次が大事な行程だった。巴はチューブがなくなった空間に軍手を付けた指を差し入れた。そのまま全体をぐるりと撫でる。チューブを傷つけたものがあれば、その指先に触れてくるはずだった。

 けれど、ゴムの感触に違和感は見つけられなかった。

 嫌な汗が出る。一周、二周と、繰り返し重点的な面を変えて、タイヤの内側を撫でる。指先に引っかかりはなく、滑らかとは言いがたい表面の摩擦だけが指に返る。

 何も見つからない。──原因が見つからない。

 望ましいのは、はっきりとパンクさせる『何か』がある方だった。わかりやすい『何か』がある方が、修理では対応しやすい。『何か』を除去して、チューブを入れなおすだけで終わる。

 パンクの原因は様々だ。劣化や整備不良でも起こるが、やはり異物貫通も多い。路上に落ちている釘、金属片、ガラスの欠片。普段は気にも留めないそれらが、自転車のタイヤには脅威になる。

 巴の指先はそれらを見つけられない。すでに抜けてしまっている可能性が大いにある。あるが、見つけられないということは、──『残っている可能性』が消せないということでもある。

 この状態で替えのチューブを入れるのは、異物がないということへの賭けのようなものだ。

 空は、今にも降り出しそうに暗い。

 今いるのは、駅でいえば新倉敷駅近くだ。目的地である岡山駅のホテルまでは残り三十キロない。都会のため信号には悩まされるだろうが、道は良いので後二時間少しあれば着くことができるはずだ。

 走行中の雨はまだしも、修理中に降られるのはかなり困る。今から屋根がある場所を探している暇はない。

 巴は悩んだ。

 悩みに悩んで──そして、替えのチューブを広げた。



 雨はほどなく、巴がホイールを車体に戻した頃に、降り始めた。



 賭けの結果は、数分もすれば分かった。

 進行方向に見えた大きな川も橋も、巴の心を浮き立たせはしなかった。

 漕ぐのを止めて歩道に避け、巴は黒く濡れ始めたアスファルトを見つめて項垂れる。雨粒が大きい。走り始める前、慌てて着込んだレインウェアに滴が伝う。

 巴は賭けに負けた。急いで入れたはずの空気は、少し走っただけで抜けていった。予備チューブまでパンクしてしまった。ここからできることは限られてくる。

 ホームセンターでパッチを購入しての修理──いや、受け付けていればパンク修理を依頼した方が──でも即時対応ではなく預かりになってしまったら──

 頭の中ばかりが働いて、巴は動けずに歩道の脇で立ち尽くした。

 できることをやる。わかっているのに、何をしたらいいのか頭が決められない。

 決めようとすれば──旅の断念までもが想定に入ってしまうから。

 少しずつでも、漕いですらいれば辿り着くはずだった。今は、ペダルを踏み込むことができない。

 足元が崩れていく感覚に、巴は自然としゃがみ込んだ。

 巴の絶望を横に、車道の方は淀みなく車が流れていく。降り出した雨に、どの車もワイパーが忙しなく動いている。やがて溜まり始めた道の脇の水溜りを、車のタイヤは高く跳ねた。

 振りしきる雨は、夏の終わりを感じさせる冷たさで巴の体温を奪っていく。

「……おい」

 考えなきゃという意思が、巴の頭で空回る。うずくまっていても何も解決しないのは絶対で。やるべきことをどうにか一つに絞ろうと巴は考える。

「──おい!」

 びくっと、巴は身を震わせた。声がした方へ顔を向ける。

 巴が座り込んだ歩道の手前、縁石がないところに軽トラが停まっている。頭にタオルを巻いた青年が、そこから鋭い三白眼を巴に向けている。


 雨の勢いは強く、止む気配はなかった。



  ※ ※ ※



「軽トラで女子連れ込むとか、アタシ、どうかと思うぞ、タッつん」

「……ちげぇわ、しゃあねぇだろ。なんか、こう……すっげぇ絶望って感じで雨に打たれとったんじゃ。トラなら、パンク修理できるが?」

「店行けよ、なんでアタシんとこぉ。そうでなくてもタッつん自身が」

「……」

「できんのか」

「……トラクターのパンク修理なら」

「それできて何でチャリできん!?」

「なんか……繊細そうで」

「なおのことアタシんとこ持ってくんな」

 巴は、トラクターの脇で、ひっくり返した集荷用カゴに座って項垂れていた。貸してもらったタオルが、びしょ濡れの身体から体温が逃げるのを防いでいる。

 パンクしたままのクロスバイクは、倉庫の壁に立てかけてある。

 端の方でこそこそ会話して結果が出たのか、タッつん──三宅龍之介と、トラ──河本虎美の二人は巴の近くに戻った。

「ゴメンなぁ、いきなりこんな顔怖いヤツに絡まれて恐怖しかなかったよなぁ。んで、コイツの説明全然要領得ないから、ゴメンだけど状況教えてもらってもいい?」

 特に何の結果も出ていなかったらしい。

 茶髪の、巴よりは年上だが若い女性──虎美は、巴の前にしゃがんで、柔らかい口調でそう問いかけた。

 巴は口を開いた。感じた喉の詰まりに、顔を歪める。それでも何度か深く呼吸して、求められた状況を語った。

 福岡県から兵庫県への旅をしていて、今日の目的地が岡山市なこと。自転車がパンクしたこと。修理に失敗してしまって、予備チューブにも穴が開いてしまって、困っていたこと。

「お店に……できるだけ早く対応してもらえる、サイクルショップを探して、それでも預かりで時間かかるなら、あ……諦め、て」

 込み上がるものに、また巴の喉が窄まった。目が潤む。行動の邪魔でしかない。親切にしてくれている目の前の二人にも迷惑になる。わかっているのに、涙腺は緩む。

 嫌だと、巴は思った。

 だから──思いっきり両頬を手で打った。

 バシっと割と痛そうな音がした。実際、巴も痛くて驚いて別の意味で涙が出そうになる。

 様子を伺っていた虎美は、突然の巴の奇行に若干引いている。

 けれど優しくされるより、今はその反応の方が巴の心は軽くなった。

 立ち上がって、勢い良く頭を下げる。

「ご迷惑おかけしてすいません! 自転車片付けるのに、少し間、場所を貸してください!」

 どのみち予定は大きく崩れている。即時対応可能でも、雨まで降り出した今日の予定を完走することは難しい。

 だから、──巴は現実を受け止める覚悟をした。

 飛鳥の実家まで巻き込んでいる宿泊の予定は変えがたい。バイトや、次の面接の予定もある。兵庫からの帰りを見込んで、輪行バッグは積んでいた。自転車を仕舞って電車に変えれば、移動など一瞬で、それぞれの予定に影響も出ない。


 ただ一つ、失敗という事実がまた、巴に積みあがるだけだ。


 巴はその現実と、向き合うことにした。

 弾みで落ちそうだったタオルをキャッチした虎美が、そろそろと動く。しゃがんだまま見上げるのは、斜め後ろで立ったままの龍之介だ。龍之介はその動きに、巴から虎美に視線を移す。

 虎美は、何とも言い難く、顔をくしゃくしゃにしていた。


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