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16 4日目──瀬戸大橋/岡山県岡山市

 Side 飛鳥


 大きなカーブを越え、電車は海上に差し掛かった。窓の外をじっと見つめる飛鳥の視界を、橋梁のトラス構造が連続して横切る。焦点を切り替えて遠くに結ぶと、そこには瀬戸内の穏やかな海と小さな島々の光景が広がっている。残念ながら今日は雨模様で、夕方にも関わらずすでに暗く、遠くの方は白く霞んで見えない。『晴れの国』を対外的に標榜する岡山ではあるものの、雨が降らないわけではないので仕方ない。

 それでも、橋を渡る飛鳥の気持ちは満足に近い。


 こんぴらで七八五段の階段を制覇した先に待っていたのは、『奥の院まで一三六八段』という無情な情報だった。

 それでも登り切り、その後には高松城を訪れてお堀を泳ぐ鯛まで見た。

 香川を満喫した飛鳥に今あるのは、心地よい疲労だ。背中は自然とシートに深く凭れている。

 そんな中、少しだけ気にしているのは、巴からの連絡が少し前から途切れていることだ。

 ただ『今日は早めに着けるはず』という算段も聞いていたので、ラストスパートを頑張っているか、また旅の同行者ができたかだろうと、飛鳥は二日目ほど落ち着かない気分ではない。

 高松から電車に乗り、瀬戸大橋を越えて、岡山へ。変に気を揉まなくても、今日飛鳥は巴と同じホテルを取った。合流してから話はできる。きっとその時は、ずっと喋り続ける巴の話に、飛鳥は相槌を返すだけになるだろう。飛鳥はその時間も嫌いではない。


 巴は、飛鳥に考えていることを全部口にする。口にしなくても顔に出る。飛鳥の物言いに、傷ついた時は泣き喚いて縋り、わからない時は素直にわからないと言う。やりたくない時は、やりたくない理由を──それは大抵言い訳でしかないが、ちゃんと主張する。そこで追い打ちに飛鳥が正論をぶつけたら、最後には諦めて巴は動き出す。努力する。頑張る。挑戦する。

 巴はそれができる人間だ。

 そんな巴が飛鳥は好きだ。

 だから、関係性が続いてきた。

 それはまるで、外付け理性ともいえる関係かもしれない。けれど一方的な関係ではない。ちゃんと話をして分かり合うことのできる巴の存在に、飛鳥もまた救われている。


 瀬戸大橋が終わる。ホテルに着く頃には夜になるだろう。

 飛鳥はふいに差した眠気に、少しだけと思って目を閉じた。



  ※ ※ ※



 夜のネオンは、天気の悪さとは関係なくぴかぴかと眩しい。岡山駅周辺は、都会らしい高い建物と明かりの多さだ。ただ雨のため、人通りは雰囲気に比べて少ない。雨天用のカバーを布製キャリーケースにかぶせ、自分には折り畳み傘を差す。交差点の信号が青に変わって、飛鳥は建物の廂から出ようとした。肩掛けの鞄の方から、自分の足取りとは違う振動を感じる。

『ホテルのフロント前で待ってるよー』

 メッセージに続く、はしゃいだ様子のねこのミニイラスト。

 先程送った『食べられそうなら夕食一緒に食べない?』というメッセージの返信だ。久しぶりの応答に飛鳥は無言で胸をなでおろす。

 足早に、飛鳥はホテルを目指した。



 ろくにラウンジもないビジネスホテルのフロント前に、飛鳥は巴の姿を見つけた。格好は三日前、巴の実家から見送った時と同じTシャツとハーフパンツだ。ヘルメットもグローブもない姿は、自宅からごく近所に出かける時のような身軽さだ。足元まで部屋用の簡易スリッパ姿だった。あくまで室内用のスリッパは、ビジネスホテルといえどロビーにはそぐわない。

 互いに目を合わす。そうやって顔を見て、飛鳥は違和感に気づいた。

 疲労以上の──重さ──苦悩──なんと表現したらいいのか分からないものが、変わらないへらりとした笑顔の向こうにある。

 飛びついてきそうな巴を制して、飛鳥はチェックインを済ませた。巴と同じ階らしく、一緒にエレベーターで上がる。

「すぐ行くから待ってて」

 巴の部屋番号を確認して、先に自分の荷物を部屋に置きに行く。すぐさま部屋を出かけて、キャリーケースから一つ袋を引っ張り出した。

「えへへ、飛鳥ちゃんだぁ」

 ノックをすると出迎えられ、飛鳥と同じシングルサイズの部屋に入る。

 部屋の入り口には、丸めた新聞紙が突っ込まれた濡れた靴が置かれている。先程、フロントで部屋用スリッパだった理由はそこに見つけられる。外は雨なのだから、それほどおかしいことではない。

 巴は、飛鳥の存在にニコニコとしている。

 部屋の奥、窓際に真っ青な袋に入った何かがある。飛鳥は、しまなみ海道の時に見ているため、それが巴の輪行バッグであることを知っている。鉄道移動のための収納の仕方だ。

 飛鳥は巴の手を引いて、ベッドに腰かけた。

「何があったの?」

 飛鳥の問いが滲んでいくように、巴は少しずつ表情を崩して、それから──見たことがないくらい静かに涙を零した。

「飛鳥ちゃん……わたし、走り切れなかった……」

 か細く零された言葉に、飛鳥は繋いだ手に力を込めた。

「パンク、したの。それ自体は想定してたんだけど、雨降りそうだからって急いじゃって、ミスして予備の部品ダメにしちゃって……」

 ぽろぽろと零れる涙に、飛鳥は手を繋いだまま一瞬腰を上げた。ティッシュを箱ごととり、巴に手わたす。

「それで、親切な人が助けてくれたんだけど」

 巴は龍之介と虎美とのやりとりを飛鳥に話した。


 時は、巴が諦めた瞬間に遡る。

 農機具倉庫の屋根を、雨が強く打っていた。

『……ホントにそれ?』

 最敬礼を通り越して身を折った巴の前で、虎美は呟いた。

『助けてって言われん限りは、見ず知らずの人間相手に気の利いた気遣いなんてできん。お嬢ちゃんの要望は、本当にそれなん?』

 よく質問の意図が見えなくて顔を上げた巴に、虎美を問いかける。

『初めから気ぃ遣って目的隠したら、余計なお世話とクロスした先は明後日の方向の結果しか産まんよ』

 巴は目を見開いて、すぐに眉を下げながら細めた。

 諦めたくないのは、当たり前なのだ。

 四日間の思い出がある。走ると覚悟した気持ちがある。今目前にしている絶望よりも、走りたいという感情は強い。

 でも向こう見ずな欲求はただのわがままだ。

 誰かにそれを押し付けることを、巴は良しとしたくない。それは人見知りからくる消極的な考え方ではない。自分と他人、それが別物だときちんと理解した大人としての考え方だ。人は皆、配慮し合って関係性を作る。

 けれど虎美は、その壁を余計なものと断じた。意思疎通を阻害するのに、ただただ邪魔だと。

 ちょっと飛鳥ちゃんに似てると、巴は思った。明るい髪色も、釣り目がちな目つきも、少しきつめの話し方も、何もかも違う。なのに、ちゃんと根っこで話をしたがるところが、飛鳥を思い起こさせる。

 だから長い沈黙の後、巴は口を開いた。

『──走りたいです、兵庫まで』

『いよぉしっ!』

 すくっと虎美は立ち上がり、龍之介を振り返った。

『タッつんはとりあえずオカンに追加のタオル貰ってきて。お嬢ちゃんが風邪ひく』

『え、あ、あの』

『明後日の結果は産みたくないから宣言するけど、今からパンク修理を手伝う。でも今日はもう走らせない。パンク原因の刺さってるヤツ、多分残ってるんでしょ? 修理ちょっとかかるだろうし、止めときな。今日のホテルは岡山駅近く?』

 まだ日がある時間帯だが、ここからどんどん暮れていく。その上、雨。加えて岡山駅周辺の二号線は交通量も多い。

 何より。

『は、はい。あ、や、でも』

 まだ平常とは言い難い巴のコンディションが、虎美には不安要素にしか思えない。それはまったくの他人だからこそ下せる判断だ。焦りとは、一番最悪の事態を招きかねない要素だ。

『おい、タッつん。送るとこまでが人助けだぞ。連れてくるだけは人攫い』

『おう』

『お嬢ちゃんは、パンクした方の車輪外して。アタシ、自転車用のパンク修理パッチ取ってくる』

 そこから巴は、ひたすら虎美の勢いに押されたのだった。



「それで、ホテルまで軽トラで送ってもらったんだ」

「そう」

 巴の語り口に、飛鳥は本当に良い人達だったのだろうと感じる。

 言葉の一つ一つに、感謝が滲んでいる。

「頑張ったね」

 巴は人見知りだ。巴は必要以上に人に気を遣う。その気遣いが的外れなことが多い。余計な気苦労ばかりして、結局空気が読めていないことはザラだ。

 そんな中で要望を口にして助力を得られたのなら、労うべきだと飛鳥は言った。

 ほろりと、また一筋涙をこぼしてから、巴は飛鳥と繋いでいた手を離した。

 ティッシュを何枚か取り出して涙を拭い、それから鼻を噛む。

「頑張ってない」

 しばらくして、巴から洩れた言葉は固かった。

「走り切れなかった」

 慰める言葉を飛鳥は探す。

「だから」

 飛鳥が何かを言う前に、巴は真剣な顔を飛鳥に向けた。

「──今日走り切れなかったから、明日走り切る」

 覚悟の顔が、そこにはあった。



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