8 2日目──山口県岩国市
Side 巴
錦帯橋──山口県岩国市の観光名所である橋は、巴も子供の頃の記憶に、おぼろげながら残っている。木造のアーチは案外急こう配で、子供心で遊具に登る心地だった。それが五つも連なっていたのだから、大いにはしゃいだ思い出がある。
しかし。
「カラーライトアップは知らなかったなぁ」
少し前まで眩しかった日差しも今はなく、巴もサングラスを外していた。目的の岩国駅近くへ向かう二号線沿い、木陰の間に、その川沿いの風景は一瞬視界に入った。煌々と暖色カラーで照らされた五連アーチ。見間違えようもなく錦帯橋の遠景だ。
幼い頃の記憶と違うその姿に感心しながら、巴は今日のラストスパートを走った。
「づがれだ──ぁ!?」
付けられるだけの濁点を付けて、巴はベッドに倒れ込──みかけて留まった。
過度に疲労した身体は今すぐの休息を欲している。今ベッドで横になれば安眠が約束されている。何も気にする余裕もなく、意識は眠りに引きずり込まれるだろう。
──この汗臭い服のまま。
嗅覚というのは慣れが早い感覚で、巴にはすでによくわからなくなっている。けれど臭くないわけがない。なにせ、夏。なにせ、運動し続け。そして、肌はべたついていて気持ち悪い。
女子。
巴は己の心に改めてその二文字を刻み込んだ。髪は切っても、サイクルパンツでお尻をもこもこさせても、己は女子。
何より今は。
「……ワタシの自転車カッコイイー」
窓際、ベッド足元のスペースにある愛車に、だらしなく相好を崩す。
なんとこのホテル、汚れを拭き取った後であれば自転車を宿泊する部屋に持って入れる。
抑え気味の照明に、自転車のメタリックな青が硬質な光沢を放つ。巴の疲れなどなんのその、旅の相棒は変わらずクールだ。この二日目を乗り切って愛着もひとしお。
その愛車と同じ部屋で眠ることができる非日常感に、巴は心を浮き立たせる。
何より今は、──巴もサイクリストだ。
明日の走行も計画通り行うため、今日中に済ませることは済まさねばなるまい。
つまりシャワー、洗濯、食事、マッサージ。
明日のための準備。
スマホの振動を感じたが、巴は先にコインランドリーで洗濯物を放り込むことを優先した。一分の遅れが、眠るまでの一分を削る。自分でも汗臭さを感じる一式を投入し、硬貨を入れて運転を開始させる。
よしっと指差し確認をしてから、届いた通知を確認する。
思えば湊との出会い、峠越えルートの選択もあって、巴は今日あまり飛鳥に連絡できていなかった。とはいえ、まぁ飛鳥ちゃんも今日は実家に帰り着いて一息ついてるだろうしと、さして重くも考えていない。
自分からの連絡など大して気にしてないだろうと、巴は自分の『挑戦中!』という夕方より前の連絡の次を見る。
先程の時刻で、飛鳥から写真が届いている。
いつかどこかで見た、海と島、そして橋。
巴は目をまたたいた。画像をじっと見る。頭が回らないわけではない。回ってそこがどこか理解した上で、なぜその画像が今飛鳥から来ているのかわからない。
いつも無駄のない飛鳥にしては、意図がわからない。
正しい反応が、わからない。
『何でしまなみ海道??』
わからない時は正直に限る。巴は素直な言葉でメッセージを送った。
三年生の時に、一緒に行ったしまなみ海道の旅。飛鳥は、いつものクールさは乱さないまでも、終始うれしそうだった。電動自転車で快調に飛ばしていた。自前自転車を持ち込んだ巴をぶっちぎって。
巴はその時、飛鳥の『橋を渡りたくて』という言葉を聞いた。じゃあ誘って良かったと、心の底から喜んだ。
アプリの画面が動いて、新しいメッセージが入る。
『写真は夕方前。これは今』
続いて届いた写真には、何だか風情のある建物が写っている。ザ・日本家屋。昔の街道にありそうな、旅籠とかそういう趣の。
『飛鳥ちゃん家って、観光地だっけ?』
返信はすぐ返らない。画面を見つめて待つ。
『今、愛媛』
「──何で!?」
巴はコインランドリーを出たところで叫んだ。夜道で叫ぶ女子大生に、通行人の何人かが何事かと振り返った。
巴にとって飛鳥という人間は、やるべきことをわかっている人だ。課題、レポート、実習予定。締め切りのあるものは前倒しで対処し、長期的な目標──就職活動も計画性を持って順当に内定を決めた。巴はあまり詳しくはないが、名前は聞いたことのある何とか商社。うろ覚えで母に告げても『えらい賢い子やねぇ』と通じたと、巴は記憶している。
そんな飛鳥が。
『宿がちゃんと取れるか、ちょっとドキドキした』
スマホの向こうで、そんなことを言っている。ビデオ通話で繋がった先、飛鳥の表情には、巴にわかるほどの動揺はない。
巴は勢いよくカップ麺を啜って、しっかり咀嚼してから口を空けた。
「だから何で!?」
画面の向こう側、浴衣を着ている飛鳥は──愛媛県松山市、道後温泉にいる。
飛鳥が、眼鏡越しの目線を斜め上に向ける。
『……橋を渡りたかったから?』
飛鳥にしては説明になっていない、ひどく曖昧な言葉だ。発声の不明瞭さが語尾の高さに出ている。
巴の知る飛鳥は、いつだって何をやるべきかわかっている人。
こんなふうに、自分の感情に説明がつけられないことなどなかった。
「飛鳥ちゃんのネジが外れた……」
『ナットのつけ忘れかしらね』
「飛鳥ちゃんがボケてる!?」
飛鳥が眼鏡の位置を直す素振りで俯く。添えられた手で表情が見えなくなっても、巴にはその反応の表すところがわかった。
「飛鳥ちゃんが恥ずかしがってる!」
貴重だ。スクショしようと、巴が画面をいじっているうちに飛鳥が復帰する。
『明日早いんでしょう。私も予定を立てるから、今日はここまで』
ちらりとスマホの時刻を確認すれば、確かに巴にも猶予はない。五分程度では語りきれず、飛鳥の話も聞ききれず、巴は名残惜しく思う。
『……会えた時、いっぱい話そう』
ぐっと、巴は一度強く唇を引き結んだ。
「うんっ」
『おやすみなさい。……野菜もちゃんと食べて』
「明日の朝はバイキングだから大丈夫だよ、オカーチャン」
『……朝から食べ過ぎないように』
「はぁい。おやすみ!」
顔の横で小さく手を振って、通話を切る。
音がなくなって、静かな室内で巴は残っていた汁を冷ましながら飲む。自分の食べる音だけが響く室内に、今になって、そういえば自分が初めて一人で宿泊体験をしているのだと巴は気づいた。一人暮らしをしているのだから、一人であることは慣れている。けれど旅行は、家族や友達と行くものというイメージがあったから、初めてのビジネスホテルのシングル宿泊に少し心細くなる。気づいてしまったことで、今まで感じていなかった寂しさがふっと込み上げてくる。
けれど狭い室内、その視界には頼もしい青き姿がすぐに入る。
大学生活の三年半を共にしてきた、巴のクロスバイク。
「よしっ」
巴はわざと声を出した。ゴミを片付けて、残ったやるべきことに意識を向ける。
歯磨きして、身体のマッサージをして、明日のルートを再確認して。その上でできるだけ早くに眠りにつく。
そこではたと気づいて、巴はスマホのアラームを朝六時に設定した。これをしなければ、チェックアウト時間まで寝続ける自信が巴にはある。寝坊は挫折するとしても一番最低なケースだ。明日一日単位で一旦オンにしたが、六時に起きて悪いことはないので設定を毎日に変更する。
何も後回しにしない。今できることを必ずやっていく。
飛鳥が生きている世界はこういうことで出来上がっているのかなと思いながら、巴はベッドで痛む身体の筋をもみ込んだ。




