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22 5日目──兵庫県赤穂郡上郡町

 22 5日目──兵庫県赤穂郡上郡町


  Side 巴


 赤かった町並みを抜け、田園風景に差し掛かる。長かった国道二号線の旅は上郡に着く前に終わっていた。今は県道二八号線を進んでいる。山間の谷間を行く道だった。ガードレールの向こうには川が流れている。川沿いに並ぶ木は巴にもわかるように、桜だ。きっと春には満開の桜が立ち並ぶ壮観な景色が見られるんだろうと、巴は想像する。

 けれど今は夏の終わりで、時刻は夕方も過ぎて夜に差し掛かる頃。

 風が吹いて稲穂が揺れ、ざわめきのような音が過ぎる。巴は前傾にしていた身体を起こした。冷えた風が、汗に湿った身体と頬を撫でていく。秋の訪れを感じるような空気だった。太陽も沈み、空も青が深みを増していた。田んぼばかりな道沿いも少し暗い。道を横切る何か小動物──狸か、アナグマらしきものまで出始める。

 巴はサングラスを外した。

 橋を渡る。蛇行する川に交わるように、何度も橋はあった。

 迫り出した山の裾に沿って大きなカーブを曲がった後、巴は道の先に見つけた。

 手前のバス停スペースへと一度避け、巴は自転車を停車させた。

 正面に大きな杉の木が見える。その周りを回るように、道が大きくカーブした上に上り坂になっている。言われていた坂の始まりだと分かって、巴はボトルからドリンクを飲んだ。外してひっかけていたサングラスを、しっかりしまいこむ。

 息を整える。

 後は登り切るだけ。

 漕ぎだすペダルは、気合いが入り過ぎて軽いくらいだった。



 それでもすぐに、現実の勾配が追いついてくる。

 巴の体感では、岡山と兵庫の県境──あの船坂峠の頂上付近で味わった勾配六パーセントがずっと続く感じだ。あの時は腰を上げてダンシングの勢いで乗り切ったが、二キロ以上あるここではそうは行かない。

 呼吸が乱れる。自分が立てる音がうるさい中、聞き取ったノイズに巴は顔を上げる。予想通り、闇を裂くハイビームのライトがカーブ向こうから迫ってきていた。光を直視しないよう視線を下げ、対向車との擦れ違いをこなす。

 車が行ってしまうと道路は真っ暗に戻った。街灯はほとんどない。雑木林が風を受け、寂し気にざぁっと音を立てて揺れる。

 大きな左へのカーブに差し掛かる。ガードレールが途切れて、橋の欄干のような柵が左右に続く。左側の雑木林が一瞬途切れる。山を写す景色の目線が高い。かなり登ってきたことが分かる。もう少し進むと、今度は大きく雑木林が途切れた。左に曲がる別れ道があり、釣られて視線をやる。

 黒々と重い山の影と、深い夜空の青。

 ぱっと見た瞬間、暗いと巴は思った。

 思って、まばたいて、そして遅れて気づいた。

 ──光が、浮かんでいる。

 空に、山間の谷間に。空の光は小さく満天に、地上の光は大きく強く。

 暗いと思っていた世界の明るさに、巴は気づいた。星が巴の頭上で輝いている。ただただ路上の暗さを不自由に思っていた目に、光が届く。


 世界にはこんなに、見えていないものがある。


 呼吸が荒れ、鼓動が暴れる。太ももからお尻にかけて、負荷の高さに身体から悲鳴が上がる。ギアを一番軽いものにしてペダルを回しているが、進行速度が足りずに車体がふらつく。

 ペダルを回す。少しずつでも漕げば辿りつく。少しずつでも登れば終わる。その一心で、漕ぎ続ける。


 何で?


 汗が、こめかみから顎を伝う。町中や田園の辺りでは引いていた汗が、今また噴き出している。幸いなことに山側は気温が低く、冷たい空気が巴の体温を上がり過ぎない程度に留めてくれている。


 何でこんなに必死になってるの?


 真っ直ぐに登れなくて、車線内で意図的にルートを蛇行させて走る。もちろん進む速度はさらに落ちるが、ふらついていた車体の傾きは安定した。


 何で頑張るの?


 ふっと、巴の口元は緩んだ。綻びは顔全体に波及して、満面の笑みになる。俯けていた視線を上げ、道の先を笑って巴は望む。

 心に差した一抹の抵抗を、笑ってねじ伏せる。


 だって──格好良くいたい。


 どう頑張ってもどんくさく、どう取り繕っても泥臭い。そんな自分を認める。

 誰かの手に押されてしか始められなかった。誰かの手に支えられないと進めなかった。自分一人でできたことなどたかが知れていて、ここにいることは奇跡だ。

 怠けたい。諦めたい。

 未来が怖いから、何もしないでいることで自分を守りたい。

 ずっと胸にある感情を認める。認めた上で、一つの欲求で上書きする。


 でも──自分が自分を格好良く思える瞬間が欲しい。


 御大層な理屈なんてない。高尚な目標なんかもない。そんな馬鹿みたいに短絡的な──けれどだからこそ純粋な欲求で進もうとする。

 だから巴は、ペダルを踏む。

 先を見据える巴の目は、輝いていた。



  ※ ※ ※



 勾配が楽になって、巴は蛇行させていた進み方を真っ直ぐに戻した。それだけで進行速度がかなり変わってくる。

 視線の先に、今は目に眩しいほどの光がある。

 トンネルだ。

 トンネルの存在を恋しく思うことがあるとは思わなかったと、巴は息を整える。

『トンネルが見えたら坂は終わりだから』

 飛鳥の予告通り、道は平坦になった。

 煌々と明るいトンネル内に、視界の悪さにどれだけ緊張していたかが分かる。乱れた呼吸が収まった後は、深く長く安堵の息を吐いた。

 ギアを重く変える。トンネルから抜ける瞬間は闇に吸い込まれるようで怖いが、どことなく雰囲気の違いを感じ取る。少し走って、巴は右側の歩道に気づいた。生活の気配だ。予感に巴の気持ちが浮き立つ。先程までと違って勾配のない道を、回転数を上げて走る。

 増えていく街灯、白い施設の案内表示、見慣れた青い道路標識。

 そして。

「な──何ここぉ!?」

 テクノ中央の交差点で、巴は混乱を叫んだ。

 前方には『ロ』の字型の中央が開いたマンション。交差点を囲むのは赤く照らされたストーンサークルの半円。整然と整えられた並木。片側二車線の道路。

 最後ほどまで走っていた田舎町の名残りは消え失せた。

 と思ったら。

「し、鹿!?」

 交差点の脇の、芝生のようなところに鹿がいる。一頭ではない、二頭。一頭は当たり前みたいに草を食んでおり、もう一頭は巴が叫んだせいか、こちらに顔を向けている。

 牧歌的なのか都会的なのかどっちだ。巴の中で処理が追い付かない。

 辿り着いた感動以上の混乱に、巴は前が青信号になってもしばらく気づかなかった。対向車線を車が過ぎて行って、慌ててペダルを漕ぎ始める。

 鹿は顔の向きを、その進行を追うように変える。妙なプレッシャーを感じながら、巴は交差点を左に曲がる。

 道順は頭に入っていた。トンネルを抜けて交差点に辿り着いたら左折。次のT字路を右。

 つまり。

 向かう先には先程の穴あきマンションがある。

 とても落ち着かない気持ちではあるが、対向車線に気を付けて右折すると、本当に飛鳥の姿が見える。

 ゴール。

 ゴールだ。

 マンション前の最後の勾配を登りきって、佇む飛鳥の横で巴は自転車から降りた。

「飛鳥ちゃんっ飛鳥ちゃんっ! あの、あれっ、なに──」

 達成の感慨にふけるより先に混乱が溢れだす。延々と疑問を吐き出そうとする巴の口は、身体に受けた衝撃で止まった。

 飛鳥が、抱きついてきていた。両腕が強く、巴の首に回されている。

 飛鳥の背に、巴は自転車を持っていない方の左手を弱く添える。

「駄目だよ、飛鳥ちゃん。わたし汗臭い……」

 止める言葉を使いながら、背に当てた手は外さない。与えられた抱擁の温かさに、巴は鼻をすする。

「……おめでとう、巴」

 ひどく遅れて飛鳥から告げられる祝福は、声がとても震えていた。

「へへっ……わたし、やったよぉ、飛鳥ちゃん」

 それに対して、飛鳥は言葉もなく伏せた顔をうなずかせる。

 さっきまで吹き飛んでいた感慨が急に戻ってきて、巴も目を潤ませた。

「飛鳥ちゃんもありがとう。いっぱい助けてくれて」

 福岡県から兵庫県、その五百キロの道のりを、巴は走り切ったのだ。

 触れていた飛鳥の背を、巴は撫でた。

「ところで飛鳥ちゃんあの召喚サークルについてなんだけど──」

 やっぱり気になるそれを口に出したタイミングで、飛鳥が身体を離す。

 近距離で見つめあう。飛鳥の目元が少し赤い。

「私」

 飛鳥ちゃんも案外涙脆いんだなと呑気に思った後に、巴は眼鏡越しの強い眼差しに首を傾げた。今向けられる覚悟の瞳の理由が、巴には分からない。


「私──内定辞退するっ」


「ふぇ?」

 咄嗟に理解できなくて巴の口から妙な音で空気が漏れた。

 じっと数秒互いの瞳を見つめ合う。


「えええ──ッ??」


 光都の夜に、再び巴の叫びが響き渡った。


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