21 5日目──岡山県備前市、兵庫県赤穂郡上郡町
Side 巴
三石から県境へ向かう最後の登り──船坂峠に、船坂山隧道というトンネルがある。岡山と兵庫をまたぐ場所にあり、地図でのチェックの時から巴は嫌だなぁと思っていた。全長は四百メートルほど。その半ばに県境がある。どうせまた何の県境表示もないんだろうと、近づきながら巴はすでに気落ちしていた。
その目が、『自転車、歩行者専用道』の標識を捉えた。左向きの矢印を辿ると、確かに車道よりは細い、コンクリートで舗装された道がある。
ただし──あからさまに登り坂だった。
巴は自転車を漕ぐ足は止めずに悩んだ。
事前確認で船坂山隧道が自転車の走行を禁止していないのは確認してある。だがインターネット情報によればさほど広いわけでもなく、暗くて危ないのは巴が今まで経験したことのあるトンネルと同じだと予測される。
巴は悩む。そうこうしている間にも自転車は進み、横道は近づいてくる。巴は迷う。真っ直ぐ行けば危険なトンネル。横道をいけば登り坂の追い打ち。
巴は、顔をくしゃくしゃにした。女子大生が台無しな顔だったが、幸運にもサングラス下の苦悩は誰に目撃されることもなかった。
巴は──左折を選択した。
そして角度を上げた登り坂に、腰を上げることになる。標識によれば六パーセント。昨日降った雨の影響か、道端の残ったままの落ち葉が湿っている。タイヤを取られないよう慎重に走るラインを決めて、巴は力強くペダルを踏む。
巴は知らなかったが、国道二号線と並行するこの道は旧山陽道、かつて街道だった道だ。今では通るものも少ないが、それでも整備は定期的にされている歴史ある道である。
だからこそ、『それ』はある。
登って、登って、やがて急に道が平坦になった。苔むした道の先に、一本の石柱が立っている。二本の車止めポールを避けて、その前で巴は自転車を停めた。
『縣界』。
巴は読めずに続きの言葉を見る。
『東宮殿下行啓記念』。
まだ巴はわからない。更に下を見る。
『岡山縣』。さすがにここで気づいて、巴はサングラスを取った。『岡山縣』は『岡山県』。ということは最初の文字は『県界』。
クロスバイクを急いで道端の法面に立てかける。それから走り寄った石柱の左側面を見た。『岡山県和氣郡三石町』。反対側の右側面を見る。『兵庫縣赤穂郡船坂村』。
口をわななかせて開く。
「──け、県境だぁ!」
誰もいない静かな森の道で、とうとう出会えた象徴的な県境の表示に、巴は喝采を上げた。
※ ※ ※
Side 飛鳥
鞄から感じた振動に、飛鳥は気づいた。
スマホを取り出して画面をつけると、巴からのメッセージが入っている。
『岡山と兵庫の県境だよ! 見て見て、このご立派さ!』
続く写真の『縣界』と刻まれた石碑に、飛鳥は目を瞬く。窺える周囲の苔むした感じといい、かなりの歴史を感じた。今までとは打って変わって趣きある境の証に、飛鳥はスマホに指を滑らせる。
『おめでとう。とうとう兵庫県』
『これだけご立派に迎えられては、はしゃがずにはいられないね!』
『上郡まであとどのくらい?』
『ありがたき下りだから後一時間くらい』
一時間。飛鳥は小さく目を見開く。飛鳥は知っていた。巴が今いる県境は、今しがた自分も越えてきた場所であることを。山陽本線を倉敷から出発すると、上郡の手前は三石だ。三石──そう、巴が自販機で念のためと飲料を買おうとしていたあの町だ。三石から上郡の区間、実は巴と飛鳥は完全に並走していた。
電車では十分程度の移動が、自転車の移動では一時間以上かかる。その事実に余計、飛鳥は巴が積み重ねているものに思いを馳せる。
ぷっぷーと控えめに鳴らされたクラクションに、飛鳥は顔を上げた。スロープの手すりに預けていた体重を離す。ロータリーの脇に、オレンジ色の軽自動車が停まっている。右手にキャリーケースを転がし、その車に近づいていく。助手席の窓ガラスが下がって、運転席の女性が身体を傾けて飛鳥を見た。
黒髪を後ろで一つくくりにした、四十代の眼鏡女性。
「おかえり」
久方ぶりに対面した母親からこぼれた言葉に、飛鳥は小さくうなずく。言葉としてはありきたりな単語。なのに不思議と、ここにしかないイントネーション。
「ただいま」
キャリーケースともども、後部座席の方へと乗り込む。駅前ロータリーを出て、車は町中の交差点で信号待ちのため停止する。
「お友達、結局いつ頃?」
「上郡に一時間後ぐらいって。……お母さん、この車、私保険に入ってないよね?」
「そうやね」
「ちょっとケーキ食べてから帰らない? 私、奢るから」
「一時間?」
ふふっと、運転席からこぼれた笑いに、飛鳥は顔を向けた。けれど座席で母親の顔は見ることができない。
一方飛鳥の母は、バックミラーに一瞬視線を走らせて、自分の娘の様子に口元の笑みを深める。
「居ても立っても居られない顔」
「……もう暗くなるし、最後坂だし、荷物受け取ってあげたら楽かなって」
「飛鳥はがんばってる子が大好きやね」
飛鳥は咄嗟に何も答えられない。眼鏡の位置を、何となく直す。
「……うん、好き」
信号が青に変わり、軽自動車は近場のカフェへ向かって発進した。
※ ※ ※
Side 巴
上郡に到着する頃には、日が傾き始めていた。もらったメッセージにあった地図通りに、地元感のあるスーパーの駐車場に入る。すぐにオレンジ色の軽自動車は見つかった。飛鳥が待ちかねた様子で横に立っていた。手前まで自転車を転がして、サドルから腰を下ろす。
サングラスを外して顔を見合う。今朝ぶりの対面なのに、どこか感慨深い。
「おつかれ」
「あともうひと踏ん張り──って、ああっ飛鳥ちゃんのお母さんですか?」
落ち着いた声音で返していたのに、巴は唐突に声を裏返らせる。軽自動車の運転席、パワーウィンドウを下げて、女性が──飛鳥の母が顔を覗かせている。
「はい。飛鳥がいつもお世話になってます」
「こちらこそっ。というより、こちらばかりお世話になってますっ。今日はよろしくお願いします。あ……あぁ……飛鳥ちゃん、お母さんバージョン……!」
何の衝動にか、身を震わせて自分を見る若人に、飛鳥の母は飛鳥を見上げる。
「飛鳥、この子なんかおもしろい予感する」
「ややこしくなるから一旦黙ってて、お母さん」
ぴしゃりと我が娘に言われ、母は口を噤んだ。
巴はまず、スーパーで買い物をしてボトルを満タンにした。それから追加で飛鳥にわたされた、岡山みやげのきびだんごをぽいぽいと口に放り込んでいく。
「これでわたし、飛鳥ちゃんのお供だ」
「馬鹿言わない」
「攻め入る鬼ヶ島がうちの家?」
「お母さんは黙ってて」
「飛鳥が冷たい」
親子らしいやりとりではあるが、第三者の巴はあわあわとフォローを試みる。
「金銀財宝を持って帰るおじいさんとおばあさんの家じゃないですかっ?」
「おばあさん……、私も歳取ったかぁ。あ、おじいさんは山に芝刈り──ならぬ、姫路で飲み会で今日は遅いって」
「お父さん、去年の健康診断で良くなかったんじゃ」
「この日のために一か月禁酒してたから見逃してあげて」
「肝臓の悪さってプラスマイナスの合算でどうにかなる話じゃないと思う」
飛鳥ちゃんはご家族にも厳しいと思いながら、巴は最後のきびだんごを口に入れた。もちもちした食感と優しい甘味がおいしい。
補充も補給も終えて、最後の道を地図アプリ上で確認する。
「多分この時間なら登りの交通量はほとんどないと思う」
「帰宅ラッシュで対向車は多いよ。はみ出しとライトには気を付けてね」
加えられる情報は、地元人らしい飛鳥母からの助言だ。
「はい! もう登りに入ったら休憩なしって感じ?」
「道幅に余裕があるところが少ないから、登り切った方がいいと思う」
「わかった!」
力いっぱいうなずいて、巴は気合を入れた。大きな峠を一つ越えては来たが、終わりだと思うと力は湧いて出る。
「……じゃあ、頑張って」
「ご馳走、かっこ我が家比を用意して待ってるね」
先に駐車場から出ていくオレンジ色の軽自動車を、巴は見送った。宿泊用の荷物を先に持っていってもらったため、少し身軽になった。
西日で、町が赤く染まっている。サングラスを付け直し、巴はラストスパートに向けて駆け出した。




