20 5日目──岡山県備前市
Side 巴
やらかしたやらかした──やらかした!!
巴の胸中は大荒れだ。
見覚えがあり過ぎるお屋敷のような門扉をくぐり、玄関のガラス戸を横に滑らせる。
「すいませーんッ、忘れ物しちゃって!」
入った先の土間には、備前焼きの花瓶や湯飲みが並んでいる。どこからか、ぱたぱたと人の足音が聞こえる。柔らかな癖毛を一つにまとめて横に流した女性が、奥から現れた。
「あ、良かった~。トイレにスマホだよね?」
「はい!」
手ごたえのある問いかけに、自然巴の応えも力が入った。
食事後、出発前にお手洗いを済ませた。それはいい。咄嗟に机の上にスマホを置いていくのは危ないと思ってポケットに入れた。それもいい。けれどポケットに入れたままだと落としそうだと窓辺の段に置いた。置いてしまった。そしてそのまま、置き忘れた。
気づいた時の巴の衝撃たるや。
スマホがホルダーにないのになぜ出発したのかという、常識的なツッコミがあるかもしれない。だが、それには巴なりの理由がある。ナビに常時スマホを使うと、火傷しそうなぐらい熱くなることがあるのだ。その上ホルダーにセットしていると直射日光に当たる。だから道が分かりやすい時はできるだけ使わずしまっておくよう、旅の途中で方針を変えた。おり悪く、食事をした伊部から次の目的地、三石へは二号線を直進するルートだった。
ゆえに、巴はすでにクリアしたアップダウンを、全力で戻ってくるはめになった。
距離にして五キロ、無駄にした時間は三十分弱。途中にコンビニがあって良かった。補給が充分か、次の補給ポイントを念のため再確認しようとスマホを探して良かった。
「一応、ロック解除してもらってい~い?」
「はいっ」
指紋認証でロックは一瞬で解除された。このスマホの持ち主だという証明は完璧だ。
アプリアイコンの後ろ、背景画面に数日前に撮ったばかりの関門橋が写っている。
「良かった良かった~。タイミング的におねえさんとは思ったけど、表見てもまったく見つからなかったから」
「ありっありがとうございました!」
スマホを胸に寄せて、巴は全力で頭を下げた。不安感の反動で、泣きたいぐらいの安堵が押し寄せている。
「それではっ」
「待って待って。そこ座って」
「え」
すぐ身を翻らそうとした巴は、制止の言葉に動きを止めた。店員の女性は奥に戻ってしまう。どうしようと思いながら、土間の設えられた喫茶スペースに目を落とす。指定された椅子に、恐る恐る腰を下ろした。まだ忘れ物があったかと、落ち着かずに待つ。
「はい、お水。顔真っ赤だし、熱中症になっちゃう。これ飲む間ぐらい、涼んでから出発」
「あ、え、す、すいません」
そんなにだろうかと頬に手を当てる。かなり慌てたこともあって、確かに触れた頬は熱かった。受け取ったグラスが、手袋越しでも冷たくて気持ち良い。
「さっき見ちゃってごめんだけど、スマホの画面は瀬戸大橋?」
「え、えっと、違います。関門橋、です」
瀬戸内地域にはたくさん吊り橋がある。関門橋、瀬戸大橋、明石海峡大橋、鳴門大橋。円弧を描くメインケーブルから、垂直に細いハンガーケーブルが伸びている構造は変わらないため、どれも見た目は似通っている。
「瀬戸大橋はこの、バッテン部分が上二つ、下一つなんです」
巴はもう一度画面をつけて、女性からも見えるように、テーブルに置いた。指を関門橋の主塔部分の、上二つ、下二つのバッテン部分に置く。同じようにそっくりだと思って間違い探しをした経験が生きる。
そうしながらごくりと水を飲む。一口で止まらなくて、喉を鳴らす。自分は渇いていたのだと気づく。
片手間に検索して見せた瀬戸大橋は、巴の言う通り上二つ、下一つの造りだ。
「ホントだ~。関門橋だと、下関? ……もしかして、山口から漕いできたの?」
「……厳密には、福岡から」
「ええっ、すごいね~!」
「いえ、パンクさせるし、スマホ忘れるし……」
手放しの称賛に巴は逆に居たたまれなくなって、ミスを連ねる。
女性が軽く首を傾げた。茶色の柔らかそうな髪の束が、肩を滑る。
「アクシデントがあったなら、それを乗り越えてるのはもっとすごくない?」
女性の言葉に、巴は息を呑む。
グラスに浮いた結露が、手袋に染みてくる。
「……はい、わたしすごいかも」
「うん、すごいね~」
穏やかに笑う女性の笑顔が眩しくて、巴はグラスに視線を戻して、残りを一気に飲み干した。
※ ※ ※
備前の街中から三石方向、北寄りに東へ向かう二号線は、山への道だ。
一時的な下り坂に足を休めていると、右手にコンビニが現れる。先程スマホを忘れたことに気づかせてくれたコンビニだ。感謝もそこそこに、巴はここから長く続く登り坂の始まりに向かってペダルを漕ぎ始めた。
昨日と打って変わって晴れた空からは、燦々と日光が降り注ぐ。山道ではあるが、左右に民家は途切れず見えた。
片道一車線の国道。車は次々と巴を抜いていく。ギアの調整をしてペダルの回転数は下げないように走るが、長く続く登り坂に速度が落ちるのはどうしようもない。隣を過ぎるエンジン音、風圧。それらに意識を払わず、巴はサングラスの奥から道の先をじっと見つめて黙々とペダルを漕ぎ続ける。
そのうちに高速道路の高架下を過ぎる。一瞬だけの日陰が、汗で湿った肌には涼しかった。いつの間にか民家はなく、時折現れる建物は工場に変わっている。左側から合流してくる車に注意を払い、速度は一定に保つ。ゆるゆると、見た目でも十分坂と分かるくらいの登り坂が続く。
五日間酷使した身体は当然あちこち筋肉痛で、そうでない部分も無視しようもない重さ、怠さがある。サドルとの接触部分など、もはやどうしようもなく痛い。
けれど、そういうものだと巴も慣れてきた。
想定外のアクシデント、想定以上の不調、それでも巴は今進めている。進もうと思える。
物事を始める前にどうしようもなく強い抵抗感を、巴はいつも覚える。新しいことを始める労力への憂鬱だとか、『今』というぬるま湯に浸かっていたい怠惰だとか、動いた結果が不調に終わるかもしれない恐怖だとか。
一度スマホを触ったらなかなかやめられないし、お布団にはいつまでも入っていたい。人に話しかける時、邪見にされたら嫌だなと思う。バイトを始める時も、客として店の雰囲気を探ってからでないと応募する勇気が持てなかった。車の運転免許は大学一年の夏休みで取得したが、あれは山口の土地柄持っていない方が悪いことが起きる想像ができていたからだ。
巴はいつも悪い心でいっぱいになって、ぐずぐずしてしまう。
『やればいいのに』
そんな時、心の飛鳥が飛び出してくる。
できない理由を並べたてる巴に付き合って、容赦なく一つ一つ否定してくれる。
『やればいいと自分でもわかってるのに、何でやらないの?』
『締め切り前からとりかかる二日間と、今からとりかかる二日間に何の違いがあるの? ギリギリで始めて終わらないかもしれない恐怖を味うのが好きなの?』
『ノルマ? スマホゲームで毎日そのノルマを達成したら、達成していないアカウントと差がつくの? アカウント同士の対戦要素で有利になるの? ……対戦要素、ないんだ』
『明日遊びに行くから。うん、明日。巴が面倒臭くて今日部屋の掃除をサボろうが、サボらまいが、散らかってても、散らかってなくても、お邪魔する。大丈夫、気にしないで』
巴の悪癖は、就職活動にも影響している。同期、同僚、上司と仲良くなれるのか。仕事ができなくて怒られないか。未来図を想像すれば想像するほど、巴は怖くなる。
心境は態度に出る。そして結果は連戦連敗の面接記録に出ている。
仲間になるべき人間を前に怯えるばかりの相手を、仲間に加えてくれる会社はない。
自信がなくて怖くて、駄目な結果が積み重なって自信がよりなくなって、永遠にぐるぐる、ぐるぐる。
心の飛鳥もここまでくると働かない。
『悪いことを想定するのは正しい準備だと思う。でも想定内も想定外も、実際に発生した場面に向き合わない限り、──まず始めない限り、ただの取り越し徒労よ』
現実の飛鳥にはそう言われた。向き合うための内定が取れないのにと、巴はあの時拗ねた。
『アクシデントがあったなら、それを乗り越えてるのはもっとすごくない?』
ふもとの店で出会った、女性の柔らかな声が、そこに重なる。
つまりそういうことなのだ。悪いことが起きるかもしれない。実際起きた。でも巴は今走っている。アクシデントを越えて今、巴はここにいる。
実際のアクシデントは、事前の準備や心構え、その場の対応次第で乗り越えられる。けれど無限に想像してしまう悪い事態はどんどん壁を高くしていくばかりで、乗り越えられるわけがない。
──そっか。
巴が就職に、社会に出ることに対して抱いていた恐怖も同じだ。嫌われる、怒られる、続かない。『悪い未来』という壁を、どんどん自分で高くしてばかりだった。でも実際に何か起きれば、きっと巴は巴なりに努力する。メモをとって、人の話を聞いて、できることから始めて。そうやって、対処する。そのままでいたくないから。
今と同じように、きっと乗り越えようとする。
その覚悟さえあれば、怖さは少し薄れる。
飛鳥はきっとこのことを、必要以上に怯える巴に諭してくれていたのだ。
有難くて大好きだなぁと、淡々とペダルを踏み込みながら、巴は脳裏でそんなことを思う。
道の先に目をやりながら、道端に転がった小石を、最小限のルート取りで避ける。走り方が、身についてきた。
長い登りが終わり、短い下りが入る。ボーナスタイムだ。上半身を起こして、汗ばんだ身体に風を受ける。速度は落ちるが、呼吸と共に身体の火照りも落ち着いていく。直進方向にトンネルを目に留めて、巴は予定していた左の道の方へと入った。三石の街の脇を通る西国街道だ。狭い道ではあるが、一気に交通量が減って、巴は一息をつく。
道の脇に、自販機が目に入った。昔懐かしいと言われるような──巴の歳ではその感覚もよく分かってはいないが──商店と書かれた古風な店先に、自販機が二つ並んでいる。一方は飲料品、一方は煙草だ。
ここから先、県境に向けてもう一山ある。その上次の街、上郡につくまでは店という店がない。ボトルにはまだ余裕があるが、ここで飲み物を切らすのは致命的だ。
悪い想定を思い浮かべる。けれどここで止まる言い訳にしない。切らすかもしれないなら、買っておけばいい。登りにウエイトを増やすのは人によっては馬鹿だと思うかもしれない。けれど巴は、止まらないために──またすぐ走り出すために選択する。
自販機のスポーツ飲料のボタンを、巴は真っ直ぐ押した。




