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23 エピローグ──福岡県北九州市

『わたしが学生時代に挑戦したことは、自分の殻を破るための、福岡から兵庫まで、距離にして五百キロを自転車で走り切る旅です。

 ひと月前からトレーニングを行い、準備をしましたが、旅の途中は色々なアクシデントに見舞われました。パンクに、身体の故障、地図では分からない自転車特有の走りにくい道。万全だと思っていても、そういうことは起きてしまいました。

 そんな中、声をかけてくれる人、助けを求めれば応えてくれる人に、わたしは恵まれました。道行きで出会って、応援してくれる人もいました。そういう出会いを経験して、私は逆に普段から人に助けられていることに気づきました。

 日常でガス水道電気、何気なく乗っているバス鉄道、五百キロ走り切った国道二号線。全部誰かの手で保たれていて、わたしの生活は自分一人でなんか初めから成り立っていませんでした。

 五百キロ、五日間という記録は、自転車で走り慣れている人には大した記録ではありません。それでも初挑戦で必死に走り切り、たくさんの人の助けで完遂できた、わたしの記録です。

 あの旅で得たことは、どんなに準備してもトラブルは起きるという覚悟。そしてそんな時こそ視野を広くして、必要ならば助けを求める行動力です。』



  ※ ※ ※



 小野田巴(おのだともえ)は空を仰いだ。

 空が青い。冬の空気は乾燥していて澄んでいる。

 あの夏の日に見上げた空よりは薄く、どこか巴には、今の茫然とする感情と呼応して見えた。

 握り締めた手の中のスマホには、真っ白い背景で文字が連なっている。



『小野田巴様のご入社を、社員一同心よりお待ちしております』


 季節は冬に差し掛かっていたが、ようやく巴の氷河期は終わりを迎えた。



  ※ ※ ※



 千本飛鳥(ちもとあすか)は目を伏せた。

 この世の尊さに感動しながらも、つんと鼻にさした痛み、目の潤み──体を通してこみ上げる感情の波に抗う。

 認められるだけが幸福ではないかもしれない。

 でもやっぱりこういう終わり方がいいと、眼鏡を外して目元を押さえる。

 大学カフェ、もう北風も冷たい季節に何も堪えた様子のない顔でテラス席に陣取っていた飛鳥の、突然の様子に店内の男たちはざわつく。学内で話題の黒髪美人の挙動に、男たちは声をかけようかと腰を浮かす。


「──あすかちゃぁああん!!」


 そんな空気を丸無視で、巴は現れた。短かった茶髪は襟足まで伸びている。真っ直ぐに飛鳥に向かい、勢いよく抱きついた。

 いつもの二人組になって、男たちはそっと上げた尻を椅子に落とした。

「うか……うか……っ」

「新種の鳥の鳴き声みたいになってるから、落ち着いて」

 言いながら、飛鳥はテーブルに置いていた眼鏡を取った。装着すると、手に持っていた小説に目を落とす。丁寧に栞紐を一番前に戻して閉じた。

 見えた表紙に、巴は目を瞬く。

「『走れメロス』? 知ってる! メロスは激怒するんだよね!」

「終わり方は?」

「完走おめでとう?」

「徒競走的な物語ではないわ」

 多分言おうとしていた言葉を忘れて小ボケをしている巴の切り換えの早さに、飛鳥は時々置いていかれる。



 場所を食堂内に移し、二人は壁際の席に並んで座った。暖房がしっかり稼働していて、巴は着てきたアウターが暑くて、座席の後ろにかけた。飛鳥の前にはコーヒーのカップ、巴の前にカフェラテのカップが置かれていて、それぞれ湯気を上げている。

「鉄道の下請けの会社受かりました!」

 改めて、巴は飛鳥に告げた。

 十月以降に採用活動を行っている企業は、それまでに比べてかなり少ない。その中で巴が調べてはっきりと行きたいと意識した会社だった。そこで働く自分の姿をイメージしてアピールできた。

 当たり前に巡っている、この社会の支えになりたい。

 巴はその思いで自分を奮い立たせた。

 飛鳥は目を細め、口元を緩める。

「おめでとう」

「ありがとう! 一緒に企業研究助かりました。後ガクチカ添削も助かりました」

「真っ正直にスマホを忘れたことをトラブルの羅列に混ぜるのは本当にどうかと思った」

「インパクトあるかなって」

「悪いインパクトは就活ではいらない」

 カップを両手で取り、ふっと吐息で飛鳥は湯気を揺らす。

「でも結局内定辞退した飛鳥ちゃんの方が先にまた内定取るんだもん。すっごい焦らされたぁ」

 飛鳥は一か月近く前にもう、再度内定を取っていた。大手商社の内定辞退をして新しく決まった内定先は、海外派遣もありうる教育支援のNPOだ。新卒ではなく、通年の採用枠に応募しての採用である。本当にやりたいことを意識した飛鳥の行動は早く、果敢だった。

 がんばっている人、がんばろうとしている人を助けたい。

 飛鳥はそれができる場所を探した。

 カップに口をつけ、一口飲んだ後に飛鳥は巴に顔を向けた。

「他人と比較して苦しむのは、無駄かマイナスだから止めた方が良い」

 表情なく告げられて、巴は相好を崩した。

「へへっ」

「……おもしろいこと言った?」

「飛鳥ちゃんだなぁって」

「何それ」

 呟く飛鳥の声音に不快さはない。戸惑うような、どこか照れたような響きで、飛鳥は顔を戻し、またカップに口をつける。

 昼時ではないが、食堂内は混み合っていた。二人が言葉を交わさなくとも、ざわざわとした喧騒が二人を包んでいる。近くの年代物のエアコンが、あまり具合が良くなさそうな音と共に必要以上に温かい風を届けてくる。

 揺れた毛先がくすぐったく感じて、巴は伸びた襟足の髪に触れた。

「──それはそれとして卒論は大丈夫?」

「ひえっ」

 毛先で遊んでいる場合ではない言葉に、巴は思わず悲鳴を上げて背筋を伸ばした。

「卒業できなかったら内定の意味ないから」

「わかっ、わかってる! 大丈夫! 方向性はできてる!」

「方向性、だけ……?」

 驚愕の顔で飛鳥は振り返った。その表情に巴は余計に身を縮める。

 けれど、眉間に薄く寄っていた皺が、次の瞬間には解けた。

「就活が終わって、次は卒論。がんばって」

「うん。そう、わたしは器用じゃないから一つ一つ」

 器用ではない。横着もできない。それでも取り掛かってさえいれば、達成できる。

 だから巴は、今日も動き続けることを意識する。たまに休憩しても、必ずまた動き出す。あの夏の終わりの日の達成感を忘れずに、積み重ねる。

「そういう飛鳥ちゃんは?」

「終わった」

「おわっ!?」

「推敲中。おもしろみがないのが懸念事項」

「卒論におもしろみ!?」

「退屈かなって」

 共感性が薄い。一度立てた仮説に固執しがちになる。それがわかっているから、見返す。

 だから飛鳥は、今日も誰かの立ち位置を意識する。自分ではない誰かの感情を探す。あの夏の終わりの日に渡った橋を、自分の回りに探す。

「あーあ、卒論も終わったら卒業かぁ。飛鳥ちゃんに会えなくなるぅ」

「今から泣きそうになってどうするの」

「飛鳥ちゃんっ、来年こそ海に行く約束忘れないでね!」

「覚えてたの……?」

「忘れると思ってたの!?」


 誰しも、それぞれの道の行き方がある。

 歩いて、走って。自転車、自動車、鉄道、船、飛行機。時にはロケット。

 一直線に、迂回して。飛び込んで。掘り進んで。

 『正しい』行き方とされるものはある。

 けれどその『正しさ』を決めるのさえ、効率だとか時間だとか楽しさだとか、人それぞれだ。


 大事なのは、今の自分の『正しい』を選ぶこと。


「飛鳥ちゃん、今日講義あるんだっけ?」

「さっき終わった一コマだけ」

「じゃあ就職祝いしよう!」

「……お金大丈夫?」

「がんばる!」

「がんばるじゃないのよ」


 そうして何より、どんな行き方でも進むこと。



                         終



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