11-3
午前11時。
キッチンにはカレーの香りが広がっていた。結局、ルークの希望どおりになったのである。冷蔵庫にあった食材を使って、カレーを作った。ルークはその間、何をしていたのか。ソファーで本を読んでいた。時々キッチンへやってきては鍋の中を覗き込み、
「まだ?」
と聞く。私が追い返す。その繰り返しだった。
「完成」
私は木べらを置いた。鍋の中では黄金色のカレーがゆっくりと湯気を立てている。野菜もほどよく煮えていた。
「できた?」
リビングからルークが現れる。
「できたわよ」
「やった」
本当に嬉しそうだった。どうしてこんなにカレーが好きなのだろう。以前は匂いを書くだけにしていたのに、あの手巻きずしの日から、きちんと地球で食事を取っていた。
「昼までまだ一時間あるわよ」
「待つ」
「待てないんじゃないの?」
「今は待てる」
信用できない。私は苦笑しながら鍋の蓋を閉めた。少し寝かせた方が美味しい。その時だった。テーブルの上に置いていたスマートフォンから着信音が鳴る。
「あら。もうこんな時間だわ」
画面を見る。ビデオ通話だった。発信者の名前を見て、私は微笑んだ。山本君からだ。バンジージャンプの中継が始まる。通話に出ると、すぐに映像が表示された。
『紫乙さん!』
元気な声が響いた。画面いっぱいに山本君の顔が映る。しかし、その背後に映る景色を見て、私は目を丸くした。
「わあ……」
思わず声が漏れる。高い。青い空。遠くまで広がる海。無数の高層ビル。マカオの街並みが一望できた。
『すごいでしょう?』
山本君が得意そうに笑う。
『今、マカオタワーです!』
私は思わずスマートフォンを持ち直した。テレビでは見たことがある。世界的に有名な高層タワーだ。
その展望台からの景色が、今リアルタイムで映っている。
「綺麗……」
『ですよね!』
山本君が頷く。
『それでですね』
急に声が弾んだ。
『植村さんがこれから飛ぶんです!予定通りです』
「とうとうなのね。怖いって言っていない?」
『はい。怖がっています。でも、ノリなんだそうです!』
「ノリで飛ぶものじゃないでしょう!」
思わず叫ぶ。隣でルークも興味を持ったている。ソファーから立ち上がり、私の後ろへやって来る。
「始まったの?」
「バンジージャンプ、予定医通りですって」
「面白そう」
「あなたも飛びたいとか言わないでよ」
「飛ばない」
即答だった。少し安心する。しかし、その視線はしっかりスマートフォンに向いていた。画面の向こうでは山本君が笑っている。
『あ、いたいた』
カメラが動く。そして奥の方が映し出された。私は思わず笑った。
「お兄ちゃん」
兄だった。黒いコートを着て、腕を組んでいる。少し呆れたような顔で植村君を見ていた。兄もこちらに気付いたらしい。軽く手を振る。
「楽しそうね」
『俺は飛ばないぞ』
第一声がそれだった。私は吹き出す。
「誰も聞いてないわよ」
『念のためだ』
その返事が兄らしかった。すると、山本君が笑う。
『社長、十分怪しいですよ』
『飛ばない』
『昨日も景色見ながら悩んでたじゃないですか』
『悩んでない』
『絶対悩んでました』
『悩んでない』
子供みたいな言い争いだった。私は肩を震わせる。遠く離れたマカオにいるのに、いつもと変わらない。
それが少し嬉しかった。
「植村さんは?」
私が聞く。
『あっちです』
カメラが再び動く。そして。
「うわ……」
私は思わず息を呑んだ。そこには、安全ベルトを装着している植村さんがいた。顔色が悪い気がする。 どう見ても緊張している。
『大丈夫かな』
山本君が笑う。
『全然大丈夫じゃなさそう』
「止めてあげなさいよ」
『本人が飛ぶって言ったんです』
「昨日の自分を殴りたいとか思ってそう」
『それはあると思います』
画面の向こうで植村君がスタッフに説明を受けている。しかし、表情は硬いままだ。兄も少し離れた場所から見守っていた。すると。
『紫乙さん』
山本君が声を潜めた。
『今から実況します』
私はリビングのソファーへ腰掛けた。ルークも隣へ座る。二人でスマートフォンを見る。なんだか不思議な光景だった。日本のアパートのリビングで、マカオタワーからの生中継を見ている。しかも、兄の知人のバンジージャンプである。
「面白い朝になったわね」
私が呟く。するとルークが真顔で頷いた。
「うん」
そして続ける。
「カレー食べながら見たい」
「まだ昼じゃないでしょう」
「残念」
本当に残念そうだった。私は思わず笑う。その時だった。画面の向こうで植村さんがジャンプ台の方へ歩き始める。山本君の声が一気に大きくなった。
『来ました!』
兄もスマートフォンでユリウスさんに中継していた。どうやらマカオの朝は、まだまだ賑やかになりそうだった。




