10-3
12時。
恵介君の部屋がすっかり片付いた頃には、お昼の時間になっていた。
「じゃあ、そろそろ向こうへ行こうか」
健吾さんがそう言って立ち上がる。向こう――つまり黒崎家だ。私たちはコートを羽織り、遠藤家を後にした。といっても、移動時間はほとんどない。向かいの家なのだから。それでも、黒崎家へ続く石畳の道を歩くたび、私は少しだけ別世界へ来たような気持ちになる。
門をくぐると、まず目に入るのは広大な庭だった。冬だというのに緑が多い。背の高い木々が何本も立ち並び、庭というより小さな森に近い。常緑樹が多いため、葉は青々としている。石灯籠やベンチも点在し、歩道は丁寧に整備されていた。少し離れた場所には池も見える。水面には冬の空が映り込み、風が吹くたびに小さく揺れていた。春になれば花が咲き、夏は木陰が涼しく、秋には紅葉が美しいらしい。
黒崎家を訪れるたびに思う。本当に東京なのだろうかと。高層ビルも車の音も遠い。まるで避暑地の別荘へ来たみたいだった。そして、その森のような庭の奥に建つのが黒崎家の洋館である。白い外壁。大きな窓。重厚な屋根。古くから受け継がれてきた建物らしいが、丁寧に手入れされていて古さは感じない。むしろ風格があった。歴史そのものが建物へ宿っているように見える。正面玄関へ続く階段の両脇には冬の花が植えられ、美しく整えられていた。
「相変わらずすごい家だな」
玲司さんが苦笑する。
「初めて来た時はホテルかと思った」
「分かる」
私も思わず頷いた。恵介君も少し驚いた顔で館を見上げている。避難先として来たばかりで余裕がなかったのだろう。改めて見ると圧倒されるらしい。
「慣れるよ」
夏樹君が笑う。
「俺も最初はそうだったから」
そんな話をしながら玄関へ向かう。重厚な扉が開く。すると、すでにお手伝いさんたちが並んで待っていた。
「いらっしゃいませ」
綺麗に頭を下げられる。私は思わず背筋を伸ばした。何度来ても慣れない。まるで高級ホテルのようだ。
「皆様、大広間へご案内いたします」
お手伝いさんの一人が微笑む。私たちはコートを預け、館内へ入った。磨き上げられた廊下。大きなシャンデリア。壁には歴代当主の肖像画や美術品が飾られている。窓から差し込む冬の光が床へ落ちていて、美しかった。ルークは相変わらず物珍しそうに周囲を見ている。
「紫乙」
「なに?」
「ここ来るたび思う」
「うん」
「RPGのラスボスが住んでそう」
「失礼だからやめなさい」
思わず肘で小突く。でも、少し分かる気もした。黒崎家には独特の威圧感がある。その時、前を歩いていた一貴さんが振り返る。
「聞こえているぞ」
「やば」
ルークが即座に目を逸らした。周囲から笑い声が上がる。そんなやり取りをしているうちに、大広間へ到着した。ドアが開かれる。そこは相変わらず広かった。20人以上集まっても余裕がある空間。中央には長いテーブルが用意されている。すでに手巻き寿司の準備も始まっていた。色鮮やかな刺身。卵焼き。
きゅうり。納豆。ツナ。いくら。様々な具材が並んでいる。
「わあ……」
思わず声が漏れた。
「すごい」
佳代子さんが嬉しそうに笑う。
「頑張ったのよ」
「ありがとうございます」
恵介君が頭を下げた。その顔は少しだけ明るい。昨日までの疲れが完全に消えたわけではない。けれど、 ここには心配してくれる人たちがいる。それが伝わっているのだろう。
テーブルの周りには、すでに人が集まっていた。黒崎家の主の隆さん。玲司さん。遠藤夫妻。恵介君。瀬名さん。修輔君。ユリウスさん。一貴さん。六槍君。夏樹君。ルーク。そして、私。気付けば大人数になっていた。でも、不思議と窮屈ではない。むしろ、温かかった。
隆さんが穏やかに笑う。
「さあ、席につこう」
その言葉に全員が動き始める。外は寒い冬の日だった。けれど、この大広間だけはどこか春のように温かく感じられた。私は席へ向かいながら思う。恵介君にとって、この場所が少しでも安心できる居場所になりますように、と。
席につくと、自然と会話が始まった。手巻き寿司の具材を眺めながら、夏樹君が「これ全部食べてもいいのかな」と真剣な顔で悩んでいる。一貴さんが「遠慮するな」と笑い、佳代子さんも「たくさんあるから大丈夫よ」と微笑んだ。そんな穏やかな空気の中だった。
「あ、そういえば」
ルークが何かを思い出したように顔を上げる。私は嫌な予感がした。
「この前、六槍と――」
私は反射的にルークの腕を掴んだ。
「待って」
「ん?」
きょとんとした顔で見られる。
「その話は後で」
「なんで?」
「なんでも」
私は小声で言った。この場にいる人の中で、玲司さんと恵介君だけは事情を知らない。レプのことも。守護者のことも。だから、迂闊な話題は危険だった。ルークは数秒考えた後、
「ああ」
と頷いた。
「そっか」
ようやく理解したらしい。六槍君も苦笑している。
「危なかったね」
「危なかったよ」
私は小さく息を吐いた。この間、ルークはまだ二人には内緒にしておくと言っていた。その方がいいそうだ。いい加減、今は大変な状況の中にいる。驚かせるのは、もっと後でもいいと思った。




