9-20
16時。
冬の空は、すでに夕方の色へ変わり始めていた。ワタベ電機を出た後、私たちは玲司さんのマンションへ向かっていた。車内には重たい沈黙が流れている。後部座席に私とルーク、恵介君、玲司さん、瀬名さんが並んでいた。
恵介君は窓の外を見ている。その横顔は静かだった。けれど、疲れているのが分かる。今日は色々ありすぎたのだ。本来なら仕事を終えてほっとする時間なのに、そうなっていない。マンションまであと10分ほどというところで、瀬名さんのスマートフォンが震えた。ハンズフリーへ切り替える。
『瀬名さん』
男性の声だった。セランエージェンシーのスタッフらしい。
「どうしました?」
『ロビーで対応していますが、記者がまだ残っています』
車内の空気が少し重くなる。
「何人ですか?」
『五、六人です』
瀬名さんが眉を寄せた。
『先ほどより減りましたが、完全には帰りません』
「そうか……」
短く息を吐く。すると玲司さんが口を開いた。
「霧島さんが先に行ったんだろう?」
『もう到着しています』
スタッフが答える。
『一足先にロビーへ入りました。記者対応を手伝ってくれています。人が引いたタイミングで入ってほしいとのことです』
通話が終わる。しばらく沈黙が続いた。やがて、玲司さんが言う。
「急いで帰る必要はないな」
「そうですね」
瀬名さんも頷く。
「少し時間を潰しましょう」
その結果、近くのコンビニの駐車場で待機することになった。私は思わず苦笑する。まるで刑事ドラマみたいだった。
車はコンビニの端へ停車した。玲司さんが缶コーヒーを買いに行き、私も温かいお茶を買う。恵介君は何もいらないと言った。疲れているのだろう。車へ戻り、そして、10分ほどが過ぎた。その時だった。
「……ん?」
瀬名さんがミラーを見る。次の瞬間、声を上げた。
「まずい」
私は反射的に振り返る。駐車場の入口から、一人の男性がこちらへ向かって走ってきていた。カメラを持っている。
「記者だ」
瀬名さんが呟く。その瞬間、男性が車へ近付いてくる。そして、コンコンッと、窓が叩かれた。
「恵介さん!」
「少しだけお話を!」
車内が一気に緊張する。恵介君の肩がびくりと揺れた。
「出ないで」
瀬名さんが即座に言う。でも、再び窓が叩かれる。
「恵介さん!」
「元恋人の件で一言――」
「行きましょう」
運転席のスタッフがエンジンをかけた。その瞬間、記者がさらに近付いてくる。
「待ってください!」
でも、車は動き出した。まるで逃げるように。そして、一気に加速する。ミラーの中で、記者の姿が小さくなっていく。私はようやく息を吐いた。胸が痛かった。犯罪者を追うみたいだった。恵介君は何も悪くないのに。ちらりと隣を見ると、恵介君は前を向いたままだった。唇を引き結んでいる。緊張しているのが分かる。
「……大丈夫?」
私が小さく聞く。恵介君は少しだけ笑った。
「はい」
でも、その笑顔は少し弱かった。
「慣れていないだけです」
そう言うけれど、こんな状況に慣れている人なんていないと思う。私は胸が苦しくなる。いつになったら終わるのだろう。いつになったら、普通に仕事へ行けるのだろう。その時だった。瀬名さんのスマートフォンが再び震えた。画面を見る。
「……ああ」
少し嫌そうな顔になった。
「どうした?」
玲司さんが聞く。
「事務所からです」
瀬名さんが通話を開く。
『共有です』
スタッフの声が聞こえた。
『桐生真尋の名前も出る可能性があります』
車内が静かになる。私はその名前を知っていた。桐生真尋。26歳。セランエージェンシー所属の人気タレントだ。
「理由は?」
瀬名さんが聞く。
『中田さんが出席していたパーティーに同席していたことが確認されました』
「なるほど」
『記者が関連付けてくる可能性があります』
恵介君の表情が変わった。
「真尋が?」
『はい』
スタッフが続ける。
『ただ、瀬名さんが調査した件ですが――』
「ああ」
瀬名さんが頷く。
『浮気相手だったという情報は誤りで間違いありません』
私はほっとする。そうだったのか。以前から噂になっていたらしい。中田の浮気相手が真尋君ではないかと。でも、違った。それは誤解だったのだ。恵介君が静かに俯く。
「……僕、謝らないと」
誰もすぐには言葉を返さなかった。恵介君が続ける。
「距離を置いたんだ」
窓の外を見ながら言う。
「疑ってたわけじゃないけど」
少し苦しそうな笑顔だった。
「会うと、中田さんのこと思い出してしまって」
私は胸が痛くなる。真尋君も傷ついただろう。恵介君も傷ついていた。誰も悪くないのに。
「最近、全然連絡してない」
恵介君が呟く。
「すれ違いばっかりだった」
その時。瀬名さんがバックミラー越しに見た。
「真尋は怒ってないと思うぞ」
「え?」
「むしろ、心配してたぐらいだ」
恵介君が目を見開く。瀬名さんが続けた。
「君の様子を何回も聞いてきた」
車内が静かになる。恵介君はしばらく何も言わなかった。そして、小さく笑う。
「……そっか」
その顔は、今日初めて見た、本当に安心した顔だった。私は窓の外を見る。夕暮れが近付いている。騒動はまだ終わっていない。けれど、失ったと思っていた関係が、実はまだ繋がっていたのかもしれない。そんな希望が、少しだけ見えた気がした。




