9-17
ロビーの空気がようやく落ち着き始めた頃。私たちは再びエレベーターへ乗り込み、上の階へ戻っていた。誰もすぐには口を開かなかった。さっきまでの緊張が、まだ身体に残っている。エレベーターの鏡へ映った自分の顔は、思ったより疲れて見えた。
「紫乙」
隣でルークが覗き込んでくる。
「魂、ちょっと薄い」
「どういう状態なの、それ」
私が疲れた声で返すと、ルークが小さく笑った。
「頑張った後の顔」
「他に言い方ないの?」
すると、霧島さんが肩を揺らした。
「でも、本当に助かりました。途中からかなり空気が変わったでしょう。恵介が出てくるまで騒がしかったでしょうし。あの様子で迫られたら、写真の一枚や二枚、隠れて取られていたに違いありません」
「……途中から機材が壊れていましたけどね」
私がぼそっと言う。その瞬間。ルークが、すっと違う方向を向いた。
「知らないなあ」
「絶対知っているでしょうが!」
私が小声で睨むと、瀬名さんまで吹き出しそうになっていた。でも、その空気も長くは続かなかった。エレベーターが止まる。扉が開いた瞬間、空気が変わる。応接室前の廊下では、すでに数人のスタッフが慌ただしく動いていたのだ。
「霧島さん!」
一人の女性スタッフが駆け寄ってくる。セランエージェンシーの社員だった。すると、玲司さんがどこかに電話をかけていたようで、廊下の奥から戻ってきていた。
「先ほど、広報から連絡が入りました」
「何があった?」
霧島さんの声が切り替わる。さっきまで穏やかだった空気が変わった。
「SNSで、“ファーストコンタクトの社長が恵介さんを囲っている”という投稿が拡散されています」
「……早いな」
「あと、“記者の機材が壊された”という話まで出始めています」
私は思わずルークを見る。ルークは壁の抽象画を眺めていた。完全に知らない顔だった。
「現在、ワタベ電機側にも問い合わせが来ています。取材拒否についての確認です。ファーストコンタクトには、五十里社長への取材が来ているそうです」
そこで、霧島さんが短く息を吐く。そして、頷いた。
「分かった。こっちでも対応する。まず、ファーストコンタクト側からはコメントを出さないことだ。今回の件は恵介個人の問題じゃない。こっちが不用意に前へ出ると、逆に騒ぎが広がる」
「はい」
「ただ、“現場が混乱してる”って印象も避けたい。ワタベ電機側と足並み揃えてくれ」
社員がすぐに頷く。
「あと、今日の対談内容については予定通り公開。変更なし」
「分かりました」
「“記者を締め出した”って表現だけは避けよう。“通常対応だった”で統一して」
私は少し圧倒されながら、その様子を見ていた。霧島さんは、場を読むのが上手い。誰かを煽らず。でも、流れをちゃんと制御している。その時だった。
「紫乙君」
急に名前を呼ばれて、私は肩を跳ねさせた。
「は、はい!」
玲司さんが私の前に立ち、少し笑った。
「そんな緊張しなくていい」
「いや、でも……」
「さっきは助かった」
私は瞬きをした。
「え?」
「記者たちに声かけてくれただろう。ロビーの監視カメラで見ていた」
玲司さんの声は穏やかだった。
「あれで空気がかなり変わった」
「そんな、大したことは……」
「あったよ」
きっぱり言われて、私は言葉に詰まる。
「君は、人を刺激しない話し方ができる」
私は少しだけ俯いた。そんなふうに言われたことは、あまりなかった。
「ファーストコンタクトでも、そういう場面が何度かあったしな」
玲司さんが小さく笑う。
「会見とか取材って、“正しいこと言う”だけじゃ駄目なんだよ。空気を荒らさないことも大事だから」
その言葉が、妙に胸へ残る。その時。瀬名さんが低い声で口を開いた。
「玲司さん。事務所側は、会見の可能性も検討し始めています」
「そこまで?」
「まだ未定です。ただ、今夜あたりネット記事が一気に出る可能性が高いと思います」
空気がまた少し重くなる。私は無意識に唇を噛んだ。恵介君は、まだ対談中だ。何も知らないまま、カメラの前で笑っている。その状況が、妙に苦しかった。すると、ルークが、すっと私の肩へ触れた。
「紫乙」
「……なによ」
「今、考えすぎてる」
低い声だった。私は俯く。
「でも……」
「恵介君は、今、ちゃんと仕事をしている」
ルークが静かに言った。
「それを守っている人たちもいる」
その視線が、玲司さん達へ向く。
「だから紫乙も、自分のできることをすればいい」
私は少しだけ黙った。その言葉が、胸へ落ちていく。そうだ。今、私が不安になっても仕方ない。できることをするしかないのだ。
その時、応接室の扉が開いた。対談が、一旦休憩へ入ったらしい。中から、恵介君の笑い声が聞こえてきた。
「いやー、緊張した……!」
その明るい声に、私は少しだけ救われる。まだ大丈夫だ。少なくとも今は、この場所は、ちゃんと守られている。そう思った瞬間だった。ルークが、ぼそっと呟いた。
「……まだ終わってないけどね」
「え?」
振り向く。でも、ルークはもういつもの顔へ戻っていた。にこっと笑う。
「紫乙、顔が怖い」
「あなたのせいでしょうが!」
私が抗議すると、ルークが楽しそうに肩を揺らした。その笑い方を見ながら、私は胸の奥に、また小さな胸騒ぎが戻ってくるのを感じていた。




