9-8
伊神さんは、私の言葉を静かに聞いていた。応接室の外では、スタッフたちの話し声がかすかに聞こえている。コーヒーカップの触れ合う音。資料をめくる音。そんな現実的な空気の中で、私たちはまるで別の話をしていた。
「実は」
伊神さんが、小さく息を吐く。
「久弥の件がある前から、時々いたんです」
「え?」
「“重なっている人”が」
私は瞬きをする。
「街中とか、仕事先とかで、妙に違和感のある人を見ることがあって」
伊神さんは少し言葉を探すように続けた。
「一人なのに、一人じゃない感じがするんです」
「……」
「視線の向きとか、空気の揺れ方とか、声の間とか」
私は黙って聞いていた。
「でも、説明できなかった。自分の勘違いだと思っていたんです」
伊神さんは苦笑する。
「だから、月島さんから事情を聞いた時、“ああ、そういうことだったのか”って、妙に納得したんですよ」
私は小さく息を吐いた。この人は、本当に見えていたのだ。しかも、かなり前から。
「今日は、紫乙さんを見た時に、最初、“地球側の人じゃない”と思ったので、月島さんと兄妹関係なのは、ここでの血縁というより、過去世での繋がりなのかなと思ったんです。でも、あなたは地球人なんですね。エネルギー体なのに。どういう仕組みなんだろう」
私は思わず黙り込んでしまった。すると、ルークが頭の奥で小さく笑う。
(鋭いね)
(他人事みたいに言わないで)
(でも、半分正解)
私は小さく息を吐いてから、伊神さんへ向き直った。
「兄には、“ハトホル”にいた過去世があるそうです」
「ハトホル……」
伊神さんが静かに繰り返す。
「軍機関みたいなものだって聞いています。そこで、ルークと知り合ったみたいで」
自分で言っていても、不思議な話だと思う。普通なら、絶対に信じない。でも、私はもう、“完全に否定もできないところ”まで来てしまっていた。
「ただ」
私は少し困ったように笑った。
「まだ、全部を思い出したわけじゃないんです。ルークが時々、夢を見せてくるんです。それで少しずつ事情を知っていて」
金星近傍の星。ミケーネ。ミレイニー。谷から飛び降りる転生。あの夢たちは、妙に現実感がある。でも。
「……正直、本当なのかは分からないんです」
私は素直に言った。
「ルーク、嘘をつく時があるので」
その瞬間、頭の奥で不満そうな声がした。
(そんなに嘘ついてないよ)
(十分ついてるわよ)
(演出だよ)
(それを嘘って言うの)
私は小さくため息を吐く。
「だから、“本当に過去世なのか”“ルークの創作なのか”、まだ信じ切れていない部分もあります」
「なるほど」
伊神さんは、否定も肯定もせず頷いた。
「困った人なんです」
私がそう言うと、伊神さんがくすっと笑った。その笑い方が、妙に優しかった。
「でも」
伊神さんは静かな声で続ける。
「久弥の声帯を治してもらったことは事実です」
私は顔を上げる。
「だから、僕は信じていますよ」
その時だった。胸が、きゅん、とした。
(あっ……)
私は思わず視線を逸らしそうになる。こういうタイプに弱いのだ。真面目そうで、落ち着いていて、普段あまり感情を表に出さない人が、ふっと柔らかく笑う瞬間。あれは反則だと思う。しかも、伊神さんは、話し方まで穏やかだった。声が低くて、安心感がある。
(危険……)
私は内心で呟く。すると、その瞬間だった。
(紫乙)
頭の奥で、ルークの声が妙に低くなる。
(なに?)
(今、“きゅん”とした)
(してない)
(した)
まずい。完全にバレている。私は誤魔化そうとした。でも、その時だった。
――コンコン。
応接室のドアがノックされた。
「失礼します」
聞き覚えのある低い声。次の瞬間、ドアが開く。私は思わず固まった。
「……は?」
入ってきたのは、ルークだった。本体だ。しかも、今日は珍しくスーツ姿だった。黒のスーツ。細身のシルエット。ネクタイまで締めていた。ちゃんと黒髪に変装している。なんで来たの。本当にそう思った。私の中では、まだウォークイン中のルークがいる。つまり今、“二人”いる状態だ。
(ちょっと!?)
(来ちゃった)
(来ちゃったじゃないのよ!)
(だって、紫乙が他の男にときめいてるから)
(聞こえてたの!?)
(全部聞こえてた)
最悪だった。すると、伊神さんが一瞬だけ目を見開いた。でも、すぐに理解したらしい。
「……なるほど。こういう感じなんですね」
その声が少し面白がっていて、私はさらに恥ずかしくなった。ルークは、そんな私を完全に無視して微笑む。
「こんにちは」
優雅に会釈する姿が、妙に様になっていた。そして次の瞬間、ルークは真っ直ぐ伊神さんを見た。
「紫乙を口説かないでくれる?」
私は思わず頭を抱えた。とんでもないことを言い放ったからだ。




