9-6
午前10時半。
応接室の中は、すっかり収録準備の空気になっていた。テーブルの上へ資料が並べられ、撮影スタッフたちがカメラ位置を確認している。照明担当が光の角度を調整し、編集スタッフはモニターを見ながら音声チェックを始めていた。さっきまで静かだった空間が、一気に“現場”へ変わっていく。私たちは、伊神さんと恵介君を囲むようにして席へ着き、対談前の打ち合わせを進めていた。
「本日の流れですが――」
ワタベ電機の広報担当者が資料を開く。
「前半は、恵介さんとワタベ電機との関わりについて。後半で、お二人の仕事観や“ものづくり”に対する考え方を中心にお話しいただく予定です」
伊神さんが静かに頷いた。
「了解しました」
落ち着いた声だった。隣では、恵介君も真剣な顔で資料へ目を通している。さっきより表情は少し硬い。でも、逃げたいという空気ではない。緊張しながらも、ちゃんと前を向いていた。
「途中で休憩を挟みますので、無理はしないでくださいね」
スタッフの女性が優しく声をかける。
「はい」
恵介君は小さく笑った。その横で、瀬名さんが静かにスケジュール表を確認している。今日はマネージャーとしてだけではなく、現場全体の空気も見ているようだった。視線の動かし方が鋭い。誰がどこで動いているのか、全部把握している感じがする。霧島さんが“危機管理対応係”と呼ばれる理由が少し分かる気がしたけれど、瀬名さんもかなり近いタイプなのかもしれない。
玲司さんは、その少し後ろにいた。前へ出るわけではない。ただ、静かに見守っている。けれど、恵介君が不安そうな顔をすると、自然に視線を向ける。そのたびに、恵介君の肩から少しだけ力が抜けていくのが分かった。本当に、保護者みたいだと思う。その時だった。
「恵介さん」
伊神さんが、ふと穏やかな声を出した。
「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ」
恵介君が顔を上げる。
「えっ」
「対談というより、“好きなものの話”をする感覚でいいと思っています」
その言葉に、室内の空気が少し柔らかくなった。
「好きなものの話……」
恵介君が小さく繰り返す。
「はい」
伊神さんは静かに笑った。
「僕も、家電の話になると長くなるタイプなので」
その瞬間、恵介君が吹き出した。
「それ、分かる気がします」
「ですよね」
二人の間に、少し自然な空気が生まれる。広報担当たちも、どこか安心した顔になっていた。たぶん、相性確認をしていたのだろう。対談は、相手同士の空気が合うかどうかでかなり変わる。私はその様子を見ながら、小さく息を吐いた。よかった。少なくとも今は、ちゃんと話せそうだ。その時だった。
(……紫乙)
頭の奥で、ルークが静かに呼びかける。
(なに?)
(僕の姿に気づいてる)
(伊神さん?)
(うん)
私は反射的に伊神さんを見る。すると、そのタイミングで、伊神さんもこちらを見ていた。一瞬だけ、視線が合う。その目は穏やかだった。でも、“何も知らない人”の目ではなかった。私は静かに背筋を伸ばした。今日という日は、思っていたよりずっと深いところへ繋がっているのかもしれなかった。
打ち合わせはいったん区切りとなり、30分ほど休憩を挟みましょうという声が上がった。室内の空気が少し緩む。スタッフたちが資料をまとめ始め、コーヒーを取りに立つ人もいた。照明担当は機材の角度を確認し、広報担当者たちは小声でスケジュールを調整している。恵介君は、ほっとしたように息を吐いていた。
「緊張した……」
小さく呟くと、玲司さんが穏やかに笑う。
「まだ始まっていないぞ」
「分かっているよ」
そう言いながらも、さっきより表情は少し柔らかい。伊神さんと実際に話してみて、安心した部分があるのだろう。
「少し水を飲んでこようか」
玲司さんが静かに声をかける。
「うん」
二人はスタッフへ軽く会釈をして、応接室の外へ出ていった。瀬名さんも電話対応のため、席を外す。室内は少し静かになった。私は資料を整えながら、小さく息を吐く。その時だった。
「永山さん」
落ち着いた声が聞こえた。顔を上げる。伊神さんだった。




