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すると、瀬名さんが静かにこちらを見た。申し訳なさそうな顔をしている。玲司さんの秘書なのにということを、車の中で何度も言っていた。
「紫乙さん」
「はい?」
「たぶん今日、急な対応が増えます」
「やっぱり?」
「ええ」
彼は小さく苦笑した。
「もうすでに、予定より人が多いです」
私は室内を見回す。たしかにそうだった。予定以上にスタッフがいる。広報側の熱量が高い。それだけ、今回の企画へ期待しているのだろう。その時だった。
「失礼します!」
若い女性スタッフが、少し慌てた様子で入ってくる。
「取材班、一社追加になりました!」
室内の空気が少し動いた。瀬名さんと玲司さんの視線が、一瞬だけ重なる。――来た。私は直感した。今日、何かが起きる。胸のざわつきの正体が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
その時だった。扉の外から、落ち着いた男性の声が聞こえる。
「伊神です。失礼します」
室内の空気が、静かに変わった。三十代半ばほどに見える男性が入ってくる。黒髪をきちんと整え、濃紺のスーツを隙なく着こなしている。派手さはない。でも、空気が引き締まるような存在感があった。広報担当者たちが、自然と姿勢を正す。私は反射的に立ち上がり、頭を下げた。
伊神さんとは初対面だった。けれど、まったく知らない相手という感覚はなかった。夏樹君の関連で、これまで何度か名前を聞いていたからだ。夏樹君が所属しているバンドのプロデューサーであり、元ディアドロップのギタリスト、そして作詞作曲家でもある佐伯久弥さんの恋人が、目の前にいる伊神さんだった。
二人は同い年のカップルだと聞いている。だから、今年で35歳になるはずだ。でも、実際に会ってみると、不思議な印象だった。若々しさはあるのに、落ち着きがある。柔らかな物腰なのに、どこか空気を引き締める雰囲気があって、実年齢より上に見えた。私は自然と背筋を伸ばし、名刺を差し出す。
「ファーストコンタクト、秘書広報課の永山です。本日はよろしくお願いいたします」
伊神さんも、静かな所作で名刺を差し出してきた。ワタベ電機 企画部課長――伊神蔵之介。肩書きの文字を見て、私は小さく息を呑む。35歳で課長職。やはり、かなり仕事のできる人なのだろう。
「永山さん」
伊神さんが穏やかに微笑んだ。
「お話は月島さんから聞いています」
その言葉に、私はすぐ意味を理解する。兄のことだ。
「初めまして。兄が、お世話になっています」
伊神さんの方から兄の話題を出してくれたから、こちらからもきちんと挨拶を返すべきだと思った。
「こちらこそ」
伊神さんは静かに頷く。
「月島さんには、久弥の件で随分助けてもらいました」
その声は穏やかだった。でも、“久弥”と呼ぶ時だけ、少しだけ空気が柔らかくなる。私はなんとなく、ああ、本当に大切にしているんだなと思った。その後、伊神さんは玲司さんとも名刺交換を始めた。
「ファーストコンタクト代表の五十里です」
「ワタベ電機の伊神です。本日はありがとうございます」
大人同士の落ち着いた空気だった。でも、その時だった。伊神さんが、ふと私の方を見た。少しだけ首を傾げる。
「……?」
私は内心で息を止める。何かを感じている。そんな気がした。兄から聞いている。伊神さんは、ルークの存在を知っているのだと。ヨークとウーリのこともだ。一貴さん都は何度も会っているというし、事情が事情だった。夏樹君たちの音楽活動の中で、久弥さんが声帯を痛めたことがあった。そこで、ソロ活動で歌えなくなり、引退したのだ。その後はプロデューサーに転向した。しかし、その後、ルークとヨークが治療に関わった。声は治った。
そこで、伊神さんも秘密を知ることになったらしい。兄がその場へ同席し、事情説明までしたと聞いている。だから、伊神さんは“普通ではないこと”へ耐性がある。今も、もしかしたら見えているのかもしれなかった。私のそばにいるルークの存在が。もちろん、口には出せない。玲司さんも瀬名さんも、事情を知らないのだから。
すると、その時だった。
(……見えてるね)
頭の奥で、ルークが小さく笑った。
(やっぱり?)
(うん。面白いくらい気づいてる)
(やめてよ……)
私は表情を崩さないよう必死になる。伊神さんは数秒だけこちらを見ていたが、すぐに自然な笑みに戻った。
「今日は、よろしくお願いします」
それ以上は何も言わない。でも、その目は、どこか“確認した”ようにも見えた。私は静かに息を吐く。胸騒ぎの理由が、また一つ増えた気がした。




