9-4
午前9時過ぎ。
車は、ワタベ電機本社ビルの地下搬入口側へ静かに入っていった。私は窓の外を見上げる。高層ガラス張りの外観。無機質なのに、どこか洗練されている。正面エントランス側には巨大な企業ロゴが掲げられていて、平日の朝らしく、スーツ姿の社員たちが忙しそうに出入りしていた。
「大きい……」
思わず呟く。隣で恵介君も窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。
「久しぶりに来ました」
「前にも来たことがあるの?」
「パンフレット撮影の時に」
そう言って、少しだけ懐かしそうに笑う。
「でも、今日はまた空気が違いますね」
たしかにそうだった。今日は“撮影モデル”としてではなく、“対談相手”として呼ばれている。扱いが違う。会社側もかなり丁寧に準備しているのが分かった。
車が静かに停止する。すると、すぐにスーツ姿の男性社員が近づいてきた。
「おはようございます。お待ちしておりました」
丁寧な声だった。四十代前半くらいだろうか。黒縁眼鏡をかけた、きっちりした印象の男性だ。瀬名さんが先に車を降りる。
「セランエージェンシーです。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
そのやり取りを聞きながら、私はコートを整えて外へ出た。冷たい空気が頬へ触れる。その瞬間、頭の奥でルークがぽつりと呟く。
(会社の匂いがする)
(なにそれ)
(紙とコーヒーと機械の匂い。ファーストコンタクトとは違う雰囲気だ。遊びに来ている感じがない)
(もっと分からないんだけど)
私は少し笑いそうになる。でも、なんとなく理解できた。ファーストコンタクトは、もっと華やかだ。先代社長の趣味だったらしく、ロビーや応接室のあるフロアは、まるで高級ラウンジみたいな空気があった。玲司さんが社長になってから内装はかなり落ち着いたらしいけれど、それでもどこか“人を楽しませる会社”らしさが残っている。白と茶色を基調にした今の内装も上品だが、写真で見た昔の社内は、クラブみたいだった。照明も派手で、音楽が流れていても違和感がない。その点、ワタベ電機は違う。整然としていて、静かで、機能的だった。
エレベーターへ案内され、私たちは上階へ向かう。移動中、社員の男性が恵介君へ丁寧に話しかけていた。
「本日はありがとうございます。伊神も楽しみにしておりまして」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
恵介君は少し緊張しながらも、ちゃんと笑っている。でも、近くで見ると分かる。指先が少し落ち着かない。膝の上で何度も手を組み替えていた。瀬名さんも、それに気づいているらしかった。さりげなく話題を変える。
「恵介、あとで掃除機を見せてもらえば?」
「あ」
恵介君の顔が少し明るくなる。
「例のカラーですか?」
「展示されていますよ」
社員の人が笑った。
「伊神がかなり気合いを入れていました」
「うわ……、急に緊張してきた」
その言葉に、空気が少し柔らかくなる。玲司さんは静かにその様子を見ていた。保護者みたいだ、と私は思う。でも、ただ見守っているだけではない。恵介君が無理していないか、ずっと確認している。そういう目だった。
エレベーターが止まる。案内されたのは、役員フロア近くの応接エリアだった。絨毯が厚く、足音が静かに吸い込まれる。ガラス越しには、冬の東京の景色が広がっていた。
「こちらです」
通された応接室は、広々としていた。大きな木製テーブル。革張りのソファー。壁にはシンプルなアートが飾られ、棚にはワタベ電機の最新製品が並んでいる。ただ、ファーストコンタクトの応接室みたいな“豪華さ”とは少し違った。向こうは実用性重視だ。大人数で打ち合わせをしても動きやすい配置になっていて、モニターや配線も最初から組み込まれている。配信や編集確認がしやすく、どこか“現場”らしい空気がある。でも、ここは違った。企業の顔として整えられた空間だ。静かで、綺麗で、少し緊張する。
「すご……」
思わず小声になる。ルークがすぐ反応した。
(高そう)
(絶対高い)
(ソファー、ふかふかそう)
(座ればいいじゃない。玲司さんが付いてきてもいいって言っていたのに)
(僕はいいんだよ)
私は小さく息を吐きながら、ソファーへ腰を下ろした。たしかに柔らかかった。
「お飲み物、いかがされますか?」
社員の女性がメニューを差し出してくれる。コーヒー。紅茶。ハーブティー。種類が多い。
「ホテルみたい……」
思わず呟くと、恵介君が小さく笑った。そして、こっそり言う。
「ワタベ電機、来客対応がかなり丁寧なんですよ」
「慣れている感じがするわね」
その時だった。
「失礼します」
扉が開く。数名の社員が資料を持って入ってきた。広報担当。撮影スタッフ。編集担当。次々に名刺交換が始まる。空気が、一気に“現場”へ変わった。私は自然と姿勢を正す。




