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今日の現場は危険な場所ではない。対談が行われるのは、渋谷区にあるワタベ電機本社ビルの応接フロアだ。午前中に最終打ち合わせを行い、13時から2時間ほどの収録が入っている。内容も、恵介君と伊神蔵之介さんによる仕事対談。ワタベ電機の製品や企画、子供時代の思い出、ものづくりへの考え方について話す予定になっていた。スケジュールだけを見れば、穏やかな仕事だ。トラブルが起きるような要素はない。それなのに、妙な胸騒ぎだけが残っている。
(……なんだろう)
私は無意識に指先へ力を入れた。ルークが、頭の奥で静かに声を出す。
(紫乙)
(なに?)
(緊張してる)
(分かる?)
(分かるよ)
少し笑うみたいな気配がした。
(でも、悪い感じじゃない)
(ほんとに?)
(うん。“動く日”って感じ)
その言い方に、私は少しだけ眉を寄せる。
(なにそれ)
(紫乙が誰かを支える日)
私は小さく息を吐いた。その時、瀬名さんから声をかけられた。
「紫乙さん」
「はい?」
「今日、現場で動いてもらう場面、多いかもしれません」
私は思わず顔を上げた。瀬名さんは手帳を確認しながら続ける。
「ワタベ側、広報と企画部が両方入るので、人の出入りが少し多いんです。もしかすると、恵介のフォローをお願いすることになるかもしれません」
「分かりました」
私はすぐ頷いた。その瞬間、胸の奥の違和感が少しだけ形になる。ああ、これだと思った。私は今日、“同行者”として行くつもりだった。でも、実際は違うのだ。現場では、もっと動くことになる。恵介君の空気を整えたり、タイミングを見たり、人の流れを調整したり。そういう役目が、自然と回ってくる気がしていた。玲司さんがこちらを見る。
「頼りにしている」
落ち着いた声だった。私は少しだけ背筋を伸ばす。
「……はい」
そう返しながら、窓の外へ視線を戻した。冬の朝の街が、静かに流れていく。
車が六本木方面の道路へ入った頃だった。瀬名さんのスマートフォンが震える。彼は画面を確認した瞬間、小さく、ああと声を漏らした。
「霧島さんだ」
瀬名さんは通話ボタンを押した。
「おはようございます、霧島さん」
車内へ、落ち着いた声が小さく響く。相手の声までは聞こえない。でも、瀬名さんの表情が少し仕事モードへ切り替わったのが分かった。霧島勇吾さん。セランエージェンシー所属のモデル、藤沢修輔君の担当マネージャーだ。修輔君は恵介君も友達だ。私とは、一貴さんのつながりで知り合いになっている。霧島さんにはまだ会ったことがないが、噂は聞いている。危機管理対応係という、事務所内での、半ば本気のニックネームが付いている人だ。
修輔君は人気モデルだ。人目を引くし、現場でも目立つ。その分、トラブルや噂話へ巻き込まれることも多いらしい。そのたびに、静かに現れて全部処理していくのが霧島さんだった。SNS対応。週刊誌対応。ファン対応。現場調整。情報管理。全部が異様に早い。しかも、感情的にならない。だから、業界関係者からも妙に信頼されているという話を聞いたことがある。
「はい。今、向かっています」
瀬名さんが静かに返事をする。
「ええ。本人の体調は安定しています」
その言葉に、私は少しだけ窓の外を見る。本人。そう言われるだけで、恵介君が守られている側なのだと分かる。久しぶりの表舞台。だから、事務所も慎重になっている。だからこそ、今回の対談は特別なのだ。しかも、新年最初の仕事だ。失敗できない。記者の動きにも、事務所側は、かなり警戒しているのだろう。
「はい。メディア導線、お願いします」
瀬名さんの声が少し低くなる。
「記者の入り、増えそうですか?」
私は思わず視線を向けた。恵介君も、少しだけ表情を引き締めている。霧島さんが何か説明しているらしい。瀬名さんは静かに頷いた。
「……分かりました。では、到着後に再確認します」
短く会話を終え、通話が切れる。車内が少し静かになった。その空気を壊さないように、玲司さんが穏やかな声を出す。
「何かあったか?」
「大きな問題ではありません」
瀬名さんが落ち着いて答えた。
「ただ、今日の対談、想定より注目度が高いみたいです」
「……ああ」
玲司さんが静かに頷く。
「ワタベ側も、かなり宣伝を打っているからな」
「はい。それに加えて、“恵介復帰後初の長時間対談”として情報が広がっているみたいで」
恵介君が少しだけ苦笑した。
「そんな大げさな」
「大げさじゃない」
瀬名さんがすぐ返す。
「君は軽く見すぎだ」
その言い方は穏やかだった。でも、ちゃんとマネージャーの顔をしていた。恵介君が小さく肩をすくめる。瀬名さんが続けて言った。
「記者が増える可能性があるから、現場導線を少し変えるそうです」
「ワタベ電機に集まっているんですか?」
私が聞くと、瀬名さんが笑った。
「そこまでではないと思います」
「でも、霧島さんが動くって、結構大事なんじゃないですか?」
「まあ……」
瀬名さんが少し苦笑する。
「霧島さん、警戒し始めると本当に徹底するので」
その瞬間、頭の奥でルークがぽつりと言った。
(その人、強そう)
(たぶんかなり強い)
(修輔君を守ってる人だ)
(うん)
私は小さく息を吐いた。芸能の仕事は、表に見える部分だけじゃない。その裏で、誰かが必死に守っている。今日もきっとそうだ。恵介君が安心して笑えるように。対談が無事終わるように。たくさんの人が動いている。
すると、恵介君が困ったように笑う。
「そんなに危なっかしいですか、僕」
「かなり」
瀬名さんが即答した。車内へ、小さな笑い声が広がる。でも、その空気はどこか優しかった。




