9-2
午前8時半。
スマートフォンが震えた。私はテーブルの上へ置いていた端末を手に取る。画面には、玲司さんの名前が表示されていた。
『下に着いた』
短いメッセージだった。
「来た」
私は小さく息を吐き、ソファーから立ち上がる。今日は対談収録の現場だ。黒のジャケットに細身のパンツという格好にしてある。インナーは淡いグレーのハイネックで、全体を落ち着いた色合いでまとめている。普段の配信の時とは違う、“仕事用”の自分だった。
鏡を見る。髪も整えてある。少しだけ緊張した顔をしていた。頭の奥で、ルークが楽しそうに声を出す。
(紫乙、今日かっこいい)
(ありがとう)
(仕事ができる女って感じ)
(なによそれ)
(好き)
私は思わず小さく笑ってしまう。今日はルークの本体は家で留守番だ。でも、ウォークインしているから、ずっと一緒にいる。だから見た目は完全に私一人分だ。でも、頭の中では、ずっとルークが喋っている。本当にややこしい。
(玲司君、絶対またスーツが似合う)
(分かってる)
(褒める?)
(普通に言うだけ)
(それを褒めるって言うんだよ)
私はため息をつきながら、玄関で靴を履いた。
「行ってきます」
小さく呟き、アパートの階段を下りていく。冬の朝の空気は冷たかった。空は薄く白く、まだ朝特有の静けさが残っている。アパート前には、黒いワゴン車が停まっていた。セランエージェンシーの車だ。運転席には男性スタッフが座っている。そして、後部座席の窓が静かに下がった。
「おはよう」
玲司さんだった。今日はダークネイビーのスーツ姿だ。黒のチェスターコートを羽織っている。休日の柔らかい雰囲気とは違い、完全に仕事モードだった。でも、その落ち着いた空気は変わらない。
(ほら、かっこいい)
(分かったから)
ルークがすぐ反応してきて、私は内心で呆れる。その隣には、恵介君が座っていた。
「おはようございます!」
彼も今日は綺麗めなジャケット姿だった。でも、どこか緊張した顔をしている。そして、その向かい側には、もう一人男性が座っていた。
「おはようございます」
低く落ち着いた声だった。恵介君のマネージャの瀬名澪さんだ。26歳。セランエージェンシーのマネージャー部の若手だ。グレーのスーツを隙なく着こなしていて、芸能マネージャーというより俳優みたいな雰囲気があった。真面目な雰囲気だが、笑うと少し柔らかくなる。恵介君より年上らしい落ち着きがあり、車内にいるだけで空気が引き締まる感じがした。
「朝早くからすみません」
「こちらこそ」
私は軽く頭を下げる。その瞬間、頭の奥でルークが反応した。
(この人も顔が強いね)
(やめて、顔面評価しかしないの)
(でも、イケメン)
(知ってる)
私は内心でため息をついた。瀬名さんは、そんな私の様子を見て少し笑った。玲司さんのマンションで二回顔を合わせてあり、初対面ではない。でも、初対面だとしても、相手をつくろがせる才能がある人だと玲司さんが言っていた通り、すぐに打ち解けられた。私を下の名前で呼ぶのも、自然だった。
「紫乙さん、眠そうですね」
「顔に出てます?」
「少し」
優しい言い方だった。その横で、恵介君が苦笑する。
「紫乙さん、昨日も編集してたんじゃないですか?」
「途中で寝落ちしたわよ」
「ルークさんが強引に寝かせたんでしょう。もう寝ないといけないよって言って」
「そうなのよ」
まさか眠り魔法をかけられたなんて言えない。私が呆れた声を出すと、玲司さんが静かに肩を震わせた。
「……仲がいいな」
「玲司さん、笑ってますよね?」
「いや」
絶対笑っていた。私は後部座席へ乗り込む。車内は暖かかった。暖房の空気と、コーヒーの香りが混ざっている。玲司さんが紙カップを差し出してきた。
「飲むか?」
「ありがとうございます」
受け取ると、指先へ熱が伝わった。
「紫乙さんの分も買っておいたんです」
恵介君が少し嬉しそうに言う。
「ワタベ電機の近く、風が強いらしくて」
「優しい」
私が笑うと、恵介君が少し照れくさそうに視線を逸らした。瀬名さんが、そのやり取りを静かに見ている。
「恵介、今日は緊張してるんですよ」
「瀬名さん」
「朝からソワソワしていました」
「やめてください」
恵介君が困った顔になる。でも、その空気は柔らかかった。玲司さんが穏やかな声で言う。
「今日は長丁場になると思う。無理しないでくれ」
「はい」
私は頷いた。車が静かに発進する。朝の街が、ゆっくり後ろへ流れていった。その時だった。
(紫乙)
頭の奥で、ルークが静かな声を出す。
(なに?)
(今日は、恵介君にとって大事な日になる)
(……うん)
(だから、ちゃんと笑わせてあげて)
私は小さく窓の外を見た。きっと今日は、大丈夫だ。そう思っているのに、胸の奥が落ち着かなかった。ざわざわとした感覚が、ずっと残っている。何か起きるかもしれないという、そんな前兆みたいなものを感じていた。




