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恵介君は、目に見えて機嫌が良くなっていた。さっきまで少し遠慮がちだったのに、今はもう完全に“明日の予定”へ頭が向いている。私は鍋をかき混ぜながら、ふと思う。
「でも、帽子どうするの?今日買いに行くの?」
そう聞くと、恵介君は、ぱっと社長の方を見た。
「玲司さんにお願いしようと思って」
社長が静かにコーヒーを置く。
「明日の夕方から動くなら、それまでに買ってこられる」
「店、決めてるの?」
私が聞くと、恵介君が少し嬉しそうに頷いた。
「プラセルのオンライズです」
「あー……」
私は納得した。プラセルの若者向けブランド。シンプルだけれど、シルエットが綺麗で、マスクとの相性もいい。
「オンライズのキャップ、深く被れるんですよ」
恵介君が説明する。
「つば長めのやつ」
「それなら、顔がかなり隠れるわね」
私は頷いた。たしかに、あのデザインなら変装としても優秀だ。ルークが横から口を挟む。
「じゃあ、紫乙も帽子買えば?」
「私はいいわよ」
「お揃いになるのに。若い子向きの帽子でさ」
「嫌な言い方しないで」
私が呆れると、恵介君が笑った。その笑顔が、少し前より自然だった。私は野菜を盛り付けながら、その様子を眺める。本当に、少しずつだ。でも、ちゃんと空気が変わってきている。
「オンライズなら、黒かな」
恵介君がスマホで商品ページを見せてくる。
「あ、この形いい」
「ほんとだ」
深めのキャップで、ロゴも小さい。夜ならかなり目立たないだろう。
「これなら配信に映っても大丈夫そう」
「でしょう?」
恵介君が少し得意そうに笑う。そのやり取りをしながら、私は冷蔵保存用の容器へスープを移していった。湯気が上がる。キッチンは暖かかった。そんな中、ふいに視線を感じる。顔を上げると、社長がこちらを見ていた。優しい顔だった。静かで、穏やかな眼差し。
「……え?」
思わず動きが止まる。その瞬間、自分でも分かるくらい変にドキッとしてしまった。すると、社長が小さく笑った。
「すまない。見ていた」
「い、いえ……」
私は慌てて鍋へ視線を戻す。なんだろう。この人は時々、妙に距離感がおかしくなる。圧があるわけじゃない。むしろ静かなのに、視線だけで空気が変わる。社長は少し考えるように言った。
「五十里家は、男ばかりの一家だからな」
「え?」
「恵介に姉がいたら、こんな感じだったのかもしれないと思って」
一瞬、言葉が止まる。その横で、恵介君が小さく頷いた。
「……たしかに」
妙に納得した顔だった。
「紫乙さん、お姉ちゃんっぽいです」
「そう?」
「料理しながら怒るし」
「最後いらないわよ」
思わず笑ってしまう。でも、その空気はどこか温かかった。家族ではない。けれど、少しだけ似ている。そんな距離感だった。その時だった。
「……むう」
変な声が聞こえる。振り返る。ルークだった。なぜか頬をぷうっと膨らませている。完全に不満顔である。
「なによ、それ」
「別に」
絶対別にじゃない。社長も少し困ったように笑った。
「すまない」
「紫乙の真似だよ」
ルークが真顔で言う。
「君、時々そうやって膨らむだろう?」
「人を変な生き物みたいに言わないで」
私が呆れると、恵介君が吹き出した。
「似てます」
「恵介君まで!?」
リビングが笑いに包まれる。社長は、その空気を眺めながら静かに言った。
「僕は友人が少なくてね」
一瞬、部屋が静かになる。でも、社長は重い空気にはしなかった。
「だから、明日は少し楽しみなんだ」
穏やかな声だった。その言葉に、私は少し驚く。社長という立場の人は、もっと人付き合いが多いものだと思っていた。でも、考えてみれば、この人は“仕事の人間関係”ばかりの人生だったのかもしれない。静かで。責任が重くて。気軽に遊びへ行くことなんて、少なかったのだろう。
「……私もです」
気づけば、自然にそう言っていた。社長がこちらを見る。
「こういうの、嫌いじゃないので」
夜のドライブ。配信。人と集まって、くだらない話をすること。怖い場所へ行くのも含めて、“誰かと一緒に動く時間”は嫌いじゃない。すると、社長がふっと目を細めた。そして。
「恵介」
「はい?」
「よかったな」
その声は、本当に優しかった。恵介君が少し目を丸くする。でも、次の瞬間には、照れくさそうに笑って頷いた。
「……うん」
その顔が、少しだけ幼く見えた。私はそんな二人を見ながら、小さく息を吐く。明日は、みんなで心霊スポットへ行く。数年前の私なら意味が分からないと思ったかもしれない。それだけにぎやかだ。でも、こういう年末も、悪くないと思った。




